雨降って、固まる

「こっ、これでしょうか!」
 マネージャーが差し出してきた小さなプラスチック器具を受け取り、一織は頷いた。陸が人前で使うところを見たことはないが、独自に調べた中にこれと同型のものを見たことがあった。使用法も覚えている。一織は小さく息をつき、陸の背を支えて抱え起こした。
 口元に吸入器をあてがい、七瀬さん、と鋭い声で呼ぶ。
「3数えて、薬を噴射します。吸って」
 苦しげな呼吸を繰り返しながらも、陸が嫌がるように顔を歪める。薬を使うところを見られたくないのだろう。この期に及んでそんな態度をとる陸に心底腹を立てながら、調べたとおりに吸入器を構える。
「行きます。――さん、に、」
 いち、の次のタイミングで容器を押し込み、薬剤を噴射する。間近で聞いているだけで胸のつまるような喘鳴音とともに、陸は胸を震わせて息を吸い――だがすぐにまた咳き込んでしまった。
 雨に打たれ続けた身体は全身が濡れて冷たく、だが触れる肌がこもったように熱い。おそらく発熱もしているだろう。応急処置で対応できる症状ではないと判断し、傍らに膝をついた紡に目を向ける。
「マネージャー」
「はっ、はい!」
「救急車を呼んで、呼吸器系の発作と伝えてください。裏手の、人目につかない場所へ誘導して。近くまで来たら音を消してもらって」
「わかりました!」
「一織、陸の衣装脱がせろ。濡れたままじゃ体温奪われちまう」
「はい」
「ルート確保してくるわ。ミツ、ソウ、ここ任せた」
「お願いします」
 救急車、の言葉を引き金にしたかのように、携帯電話を操作しながら立ち上がった紡だけでなく、年長の3人が動き始めた。タオルを何枚も手にした三月が陸の衣装に手をかけ、大和が足早に部屋を出て行く。身体を拭いて乾いた服を着せ、代わる代わる陸を支えながら一織たちも服を替える。大和以外の全員が着替え終わったタイミングで、紡と大和に先導された救急隊員が現れた。
「お願いします! こちらの吸入薬を使いましたがうまく吸えていません。おそらくこの病院にカルテがあると思います」
 使ったばかりの吸入薬と陸の財布から出した総合病院の診察券を見せながら、一織は口早に伝達する。頷いた救急隊員が陸を抱え上げ、担架に乗せた。
「付き添いの方は」
「私です! すみません皆さん、大神が迎えに来ますのでこちらでしばらくお待ちください、またご連絡します!」
「私も同行します」
「一織さん!」
「ご家族の方ですか?」
「いえ、ですがこの場にいる中で最近の彼の症状を説明できるのは私だと思います」
 紡が悲痛に顔を歪める。一織の言葉を否定できる材料がないのだろう。申し訳なさに胸が痛むが、紡を気遣ってやれる余裕まではなかった。
「一織!」
「兄さんすみません、説明は後で」
「それはいいから、電話持ってけ。落ち着いたら連絡。荷物持って帰っとく」
「ありがとうございます」
 三月と短く言葉を交わし、担架を追って裏口を目指す。いくつもの視線が背中に突き刺さるのを感じていた。

 陸が搬送されたのは、彼が持っていた診察券の発行元である総合病院だった。搬送中にいくつかの質問に答えてしまえば、一織の出る幕はない。
「すみません、電話してきます! 一織さん、待合室で座っていらしてください!」
 医師や看護師に囲まれて運ばれていく陸を見送り、落ち着く暇もなく紡は足早にエントランスへ向かった。一織は広い待合室の隅に腰を下ろす。一般診察受付の終わった院内は薄暗く、しんと静かだ。
 サイレントモードにして開いた8人のグルチャは、一織と陸の名の連呼、安否を問う言葉で滝のようになっていた。病院に到着し現在処置中である現状や、病院名と救急車内で伝えられたことなどを書き込み、少し迷って一言謝罪を書き込む。レスポンスを見る気にはなれなくて、そのままアプリを落とすと画面を膝上に伏せた。
 ふう、と息をつく。陸の苦しげな呼吸とは異なり、それは何にも阻まれることなく一織の肺から気管をとおり、病院の空気をわずかに乱しながら広がっていく。
 ……あんなに、苦しむのか。
 陸の疾患に気づいてから対処法を調べてはいたが、あれほど苦しむ様子を間近にするのは初めてだ。ぜいぜいという呼吸音が耳について離れない。
 膝の上で手を組んで、背を丸める。痛む眉間に力を込めて、これまでの出来事を振り返った。陸の口にした言葉、自分の返した言葉。今日の振る舞い。これまでの行動。雨の中の観客の表情。エトセトラ、エトセトラ。
 最善を尽くしたとはとても言えない。ライブはどうにか乗り切ったが、もっと万全の準備も出来たはずだ。陸の懇願に絆されてしまったのが間違いだった。
 またため息をつく。
 ステージは素晴らしかった。陸の調子はけして良くはなかったが、土砂降りの雨、駅前の路上ステージというコンディションだ。明るい表情、弾むような歌い方、懸命さの伝わるダンス。十分すぎるパフォーマンスが、自分たちを知りもしない通りがかりの観衆を見事に魅了していくのがわかった。なにより、最後の最後まで笑顔を絶やさなかった陸の根性は賞賛に値する。
 素晴らしかった、歌わせて良かったという想いと、あんな無理をさせてはならなかったという後悔が、右と左から一織の腕を引いて、八つ裂きにしようと迫ってくる。
 身体はなんともないのに、呼吸だってこんなに正常なのに、苦しい。苦しいと思ってしまう自分が嫌だった。いま苦しんでいるのは、自分ではなくて陸だ。
「一織さん」
 ひそめた声に呼ばれて顔を上げる。両手にひとつずつ缶飲料を持った紡が立っていた。
「あの、よかったら……」
「ありがとうございます、マネージャー。お疲れさまです」
「一織さんこそ」
 あたたかい缶を受け取る。コーヒーかと思ったが、甘いココア飲料のようだった。
「あの、甘い方が落ち着くかと……。お嫌いでしたらすみません」
「いえ、いただきます。マネージャーも座ってください」
「はい。失礼します」
 ぽすりと軽い音で、紡が隣に腰をおろした。
「陸さんのお母様に連絡がつきました。やはりこちらの病院に以前からお世話になっていらっしゃるそうです。主治医の先生ともお話しさせていただきました。発作としては酷い部類ですが、症状は落ち着いたのでこれ以上の悪化の恐れはないそうです。点滴が終わって目を覚まされたら、夜には帰宅していいとのことです」
「……そうですか。……よかった」
「ありがとうございます、一織さん。適切な対応だったとお医者様も褒めていらっしゃいました」
「いえ、すみませんでした。危惧はあったのに、結局こんな事態を招いてしまった」
「謝らないでください! 陸さんの病気のこと、一織さんはご存じだったんですか?」
「推測しただけです。以前から呼吸の様子がおかしかったので。みなさんに話そうとしたのですが、七瀬さんに口止めされて……でもあなたには話しておくべきでした。私の判断ミスです」
「そんな! 気づかなかった私が悪かったんです」
「病院ですよ。お静かに」
「すみません……」
 耳を垂らした兎のようにしゅんとうなだれた紡に、可愛らしいと心を躍らせる余裕もさすがになかった。プシ、と缶の飲み口をあけ、ぬるくなったココアを口に含む。甘さがしみわたって、ささくれた気持ちが少しだけなだめられる気がした。
「……私たちがここで謝りあっても仕方ありません。それに、ある意味ではこうなって良かったのかもしれない。全員に露見しては、あの人もさすがに腹をくくるしかないでしょう」
「そうですね……いまは眠っていらっしゃるので、目を覚まされたらしっかりお話しします。あの、一織さん」
「なんですか?」
「陸さんのお気持ち次第ですが、私は、IDOLiSH7のセンターはやっぱり陸さんだと思うんです。陸さんにも、みなさんにも、負担をかけてしまうかもしれませんけど」
 顔を上げ、まっすぐに一織を見つめる紡は、もう打ちひしがれた女の子の顔はしていなかった。きりりと決意に満ちた、頼もしいマネージャーの顔だ。
「もとより、そのつもりです」
「良かった……!」
 視線を受け止めて、一織もIDOLiSH7のブレーンとしての言葉を返す。紡は頬をばら色に染めて、ふにゃりと笑った。だからそういう振り幅が、反則だというのだ。
「……一織さん?」
「いえ、なんでも。では、私は先に寮に戻ります。皆さんお待ちかねでしょうし」
「あっ、タクシー使ってくださいね……!」
「わかってます。――美味しかったですよ、ごちそうさまでした」
 ココアを飲み干して、一織は立ち上がった。
「お疲れさまです! またご連絡しますね」
「はい」
 紡の手からも空の缶を受け取り、ゴミ箱に投げ入れ、自動ドアを抜ける。タクシー乗り場にちょうどいた一台をつかまえ、寮の住所を告げた。動き出した車の中、少し迷ってスマートフォンでグルチャの画面を開き、トーク画面を遡ることなく帰宅の旨を伝えた。目に入った様子では、少し前に紡が状況を説明していたようだ。
『一織!お疲れさま、がんばったな。気をつけて帰ってこいよ』
『お疲れさん、イチ。リクも落ち着いたようでよかったよ。話は明日ってことになったから、帰ったらシャワー浴びて寝ちまいなさいね』
『一織くん、今日はありがとう。マネージャーからも連絡をもらったから、僕らのことは気にしないで。きみに負担をかけてしまってごめんね。気をつけて帰ってきてください』
『おかえりなさい、イオリ!今日はHeroのようでした』
『いおりん、おつー』
 ぽこぽこと吹き出しが湧いて出て、そのすべてが一織を気遣う言葉だった。ほっと安堵の息をつき、座席に背を預ける。とたんにどっと疲労と眠気が押し寄せ、引きずられるように一織はまぶたを下ろした。

 タクシーの運転手に肩を揺さぶられ、一織は目を覚ました。マネージャーから預かったタクシーチケットで支払いを済ませ、寮の玄関を抜ける。階段をワンフロアぶん上がって、少し思案してからリビングに足を向けた。足取りが重いのは、自分の意気地のなさだ。
「……ただいま帰りました」
「おー、イチ、おかえり」
 リビングのソファにはビール缶を手にした大和が手足を伸ばしていて、それ以外の姿はなかった。肩すかしを食った気分で瞬きする一織に、大和はニッと笑いかける。
「話は明日、って言ったでしょーが。そう言ってもみんなイチの顔見ると話しかけたくなっちゃうだろうから、部屋に引っ込ませてるよ」
「……二階堂さん」
「んー?」
「すいません、あの……」
 ソファから立ち上がり、口ごもる一織の額を大和がぴんとはじく。こら、とおどけた口調で咎めるのは、いつも通りの、飄々とした、頼れるリーダーの顔だ。
「ストーップ。そういうのも明日だって。はい、イチは手ェ洗って風呂入って寝る!」
「……はい」
「ま、聞きたいことはあるっちゃあるけど。お前さんのおかげでどうにかなったんだろ。偉かったなーイチ」
「やめてください、そんな」
「えらかったえらかった、お疲れさん。早く寝ちまいな」
 わしわしと髪をかき混ぜられて、一織はリビングを逃げ出した。背後でからから笑う声がする。そういう風に逃げ出させてくれるのが大和の優しさだと知っている。
 陸を歌わせたいのは一織のエゴだ。陸のモチベーションを下げてしまいそうで、なにより自分が陸にセンターにいて欲しくて、どうしても陸を制止出来なかった。周囲に気づかせずにどうにか乗り切ろうとして、招いたのがこの事態だ。ギリギリで踏みとどまれはしたが、もっと悪いことになった可能性もあっただろう。
 怒られるだろうと思っていた。謝罪しなければと思っていた。なのに、どうしてこんなにも優しい。
 足音をひそめて階段を登る。自分の部屋のドアに手をかけようとして、ふと視線を感じた。振り向くと三月がドアから顔を出して、いたずらっぽく笑っている。
「兄さん」
「一織が疲れて帰ってくるから引っ込んどけってリーダー命令だけどさ、オレは兄ちゃん特権行使すっから」
 しー、の仕草で人差し指を立て、三月が抜き足差し足寄ってくる。屈め、と手振りで示され、従った一織の背に三月の、細いが逞しい腕がまわった。ぽんぽんと優しく背を叩かれる。
「がんばったなぁ、一織」
「にいさん……」
「おつかれさん」
「はい……」
 そうっと兄の背に腕を回す。自分よりずっと小柄なのに、容姿も仕草もかわいらしいと思ってしまうのに、それでも子供の頃から変わらない、一織にとって大きいままの背中だ。
「大丈夫、だーれも怒ってないよ」
「…………」
「じゃ、風呂はいってきな」
「はい」
 兄に背を押されて、部屋に送り込まれる。ライブに持って行ったバッグは、誰かが部屋の隅に置いてくれていた。ジャケットを脱いでハンガーにかけ、パジャマと洗面セットを手にしてまた部屋を出る。まだ廊下にいた三月が、ニッと笑ってひらひらと手を振ってくれた。ぺこりと頭を下げて、階段に足を向ける。
「OHミツキ、抜け駆けデース」
「みっきー、ずっりぃ」
「ずるいですよ、三月さん」
「うっせ、兄が弟を慰めて悪いか! オラおまえら部屋戻れ~寝ろ~」
 背後で聞こえる会話に、思わずくすりと笑った。結局全員ががまんしきれないんじゃないか。
 入浴はこれからなのに、もうほかほかと身体が温まった気がする。
 ――陸はもう、目を覚ましたろうか。
(大丈夫ですよ、七瀬さん)
 歌いたい、踊りたいと言った陸の、強い目を思い出す。強く、そして孤独な光だった。きっと、たったひとりで戦ってきたひとだった。だからこそ、支えてやりたいと思ってしまった。
 けれどもう、彼がひとりで戦う必要なんてない。

(あなたが私たちのセンターだ。これからも、ずっと)

 目を覚ました彼の枕元にはきっと彼女が待っていて、あのあたたかい笑顔で彼の心を溶かすだろう。
 陸の歌声を思い浮かべて、一織は微笑む。後悔が消えたわけではない。考えることはたくさんある。それでも今夜は、いい夢が見られるような気がしていた。