未だ読まれざる一通の手紙のこと

 この紙片を手にした不幸なる、あるいは幸福なる誰かへ。私の名はムル・ハート。西の国の学者である。専門は、この狭い紙幅にはとても書き切れないだろうから、便宜上、天文学者と名乗っておこう。
 次の満月の夜、私は月へと旅立つこととした。夜空を支配するかの天体がはらむ無数の謎については、きみもご存知のことと思う。この千年余り、私はかの月――「大いなる厄災」の観測と研究を続けてきたが、これらの謎は解明されるどころか深まるばかりだった。
 幸い私は魔法使いであり、月もまた魔の存在である。あの月に近づき、その魔力に触れることこそが、謎を解明する最も有効な手段となり得るだろう。
 しかし月が危険な存在であることもまた議論の余地なく、近づきすぎた私の命が失われる可能性も、低からぬものである。
 よって、この紙片を遺していく。
 我が秘密の研究所を訪れ、隠し戸棚の存在を暴いた、名も知らぬ誰かよ。きみがこの紙片を手にしているという事実こそが、私が月に挑み、還らぬ者となったという、確かな証左である。

 さて、幸福な、あるいは不幸なるきみ。きみにいくつかの頼みがある。
 書棚に、私のこれまでの研究成果をまとめておいた。世界中の学者が千年取り組むに価値のある内容だ。保存の魔法はかけてあるが、散逸すると面倒だ。しかるべき研究機関に渡るよう、手配を願いたい。
 この研究室自体は、きみの好きにして構わない。その程度の報酬は得るべきだろう。このムル・ハートの隠れ家を暴いた手腕は評価されなければね。
 そして、最後にひとつ。
 我が古き友、シャイロック・ベネットに、贈りものをひとつ、届けて貰いたい。
 私はもうこの世にいないのだから、遺品と呼ぶのが正しいのかな。
 きみが彼を知らないといけないから、念のため記しておこう。彼、シャイロックは、神酒の歓楽街で酒場を営む魔法使いだ。きみが魔法使いであるならば、神酒の歓楽街を訪ねて、店の場所を訊くといい。あの街で彼と彼の店を知らぬ魔法使いなどいない。
 万一きみが人間であるならば、話は少しややこしい。彼の店は魔法使い専門で、入口は人間の目からは隠されているのだ。だが、そう気を落としたものでもないよ。やはり神酒の歓楽街を訪れ、誰彼構わずこう言うといい。「ムル・ハートからシャイロック・ベネットへの贈りものを預かっているのだ」と。きっときみは、たちどころに彼のもとへと送り込まれるだろう。
 この紙片を見つけたきみならば、彼への贈りものの所在も知っていることと思う。これも念のため、書いておこうか。
 まず証書が一枚。以前、見つけた星に彼の名をつけた。それについて書いてある。まあ、彼はこんなものに興味などないだろうが。
 それから隣に、黒いびろうどの小箱が置いてあったろう。とある筋から手に入れた血潮珊瑚だ。これほど大きく美しいものは、世界にも数えるほどだろう。きみのその瞳によく似合うはずだ。きみの耳を飾るために、懇意の店で加工して貰った。五年かかったと言っていたかな。間の悪いことに、その頃にまた出禁にされてしまってね。そのまま渡しそびれてしまった。
 ――ああ。すまないね。ここまで茶番を続けていたのに、ついペン先が滑ってしまったようだ。きみの苦笑が目に浮かぶよ。冷静なつもりだったが、やはりどこか浮ついているらしい。とうとうあの愛しい月に触れるのだから、無理もないかな。
 最初に見つけるのはきみ以外にいないはずだよ、シャイロック。承知の上の、ちょっとした遊びさ。
 こういった平易な言葉できみに語りかけるのも、なかなか新鮮で楽しいものだね。もちろん、きみの酒場できみと交わす議論の快楽には比ぶべくもないが。
 俺のマナ石はどうなったかな。きみのもとに届いているだろうか。死後の物質がどうなろうと構いはしないから、動力にするも、売り払うも自由だが、きみが望むならきみの手元に。よければ食べてくれて構わないよ。きみは俺より弱いくせに、ずいぶんな美食家だから。
 きみは怒っているのだろう。そして嘆いてもいる。自惚れだ、なんて台詞は聞かなかったことにしておくよ。きみは優しくて情の深いひとだし、俺を誰より憎んで、誰より恨んで、そして愛していたのだからね。
 そのままずっと、怒っているといいよ。死んでまできみの感情に口を出すなとまた怒るかい? 怒っているきみはとてもチャーミングだからね。気に入っているんだ。

 最後の夜に、きみに会いには行かないことにした。
 俺はきみの飼い猫になれはしないからね。
 行かないで、だなんて、きみも言いたくはないだろう?

 さようなら、我が友、シャイロック・ベネット。
 俺の唯一無二のひと。きみを敬愛していた。
 どうか、

 どうか、そこに、ずっと。

 ムル・ハートより、愛を込めて
 最後の新月の夜に