野良猫よ、どうか

 ――俺はきみの飼い猫になりはしないのに。
 今も一言一句違えず覚えているムルの台詞を胸のうちで反芻しながら、シャイロックは膝の上のスミレ色の髪をやわらかく梳いた。
 肩の上でまっすぐ切りそろえた、少女めいた髪型。顔立ちによく似合うが、幼い印象を与えもするそのスタイルの理由を、彼に尋ねたことはない。問うたとして、素直に答えるような人物でもなかったけれど。
 ごろごろと喉を鳴らして、ムルはシャイロックの指に頬をすり寄せる。そんな仕草も、いつの間にかすっかり見慣れたものになってしまった。猫、猫とシャイロックが呼ぶからか、あるいは単純に当人が気に入ったからか、猫の真似は今のムルの十八番だ。舌足らずな声音で、にゃあん、と甘ったるく鳴かれて、叱責の言葉を飲み込んでしまったことも、いったい何度あったことだろう。
 飼い猫になりはしない。あの流星雨の夜、ひどく傷ついた顔をしながら、そう言ったのはムルだった。
 ご自慢の知恵によって打ちのめした相手から手ひどいしっぺ返しを食らい、生涯を捧げた研究の資料をすっかり失って、身ひとつで開店前のシャイロックの店にやってきた、世紀の天才ムル・ハート。
 酩酊するための酒を求めた彼が、目深に被った帽子の下に隠していた表情を、知っているのはこの世界でシャイロックただ一人だ。彼が恋い焦がれる月も、あの日の夜空に降り注いでいた流星も知りはしない。見せないように、シャイロックがすっかり隠してしまった。
『優しいね』
 そう言ったのはムルだ。ついぞ耳にしたことのない声音だった。申し訳なさそうな、途方に暮れたような。
 注文通りの強い酒を出してやる代わりに、店を閉め、カーテンを引き、彼を隠してやったのは、あの夜に口にした通り、ただシャイロックがそうしたかったからだ。見返りなど求めてはいないし、敢えて見返りと言うならば、あの夜のムルがシャイロックに会いに来た――喪失に傷ついたままの心をシャイロックに晒し、シャイロックの前で酩酊しようとした(あの気取り屋のムル・ハート氏がだ!)、その事実だけで十分すぎるほどだった。
 ムルを飼い猫になど、したいと願ったことすらない。あの、シャイロックが長年の愛を注いだ、小さく完璧に整った店に、彼を閉じ込めて愛玩するだなんて――あるいは気高い彼に首輪をつけて手の内におさめようだなんて、そんな美意識のかけらもない願いを抱いたことは、あの頃も、今も、一度だってないのだ。
 あの夜のムルの言葉と、そのときの己の感情を反芻しながら、シャイロックは美しい唇にほろ苦い笑みを浮かべた。願ったことは真実ない、それは誓って言えるけれども、今のムルが「ただいま!」と笑って店のカウチに転がるとき、胸に広がるその感情に喜悦や優越感といったものが混じらないかと言ったら、それも否だ。
 否、なのだけれど――それでもやっぱり、シャイロックにとってムルは、ひととき己の元で庇護しているだけの野良猫だ。彼のためにカウチを用意するし、毛並みだってきれいにして、すり寄って来るなら撫でてやる――ちょうど今のように。
 あの夜だって、そうだった。シャイロックはただ自分がそうしたいから、一夜の庇を差し出しただけだ。なのに、ムルときたら。
「……だからあなたには情操教育が必要だと言ったんですよ、ムル」
 唇からコロリと転がり出た内心は、まるで甘ったるいシュガーみたいな響きだった。膝に懐いていたムルが、「なあに?」というように片目を開けて見上げる。
「教育するの? 俺、お仕置きされちゃう?」
「おや、されるようなことをなさったんです?」
「わかんなーい!」
 否定せずにケラケラ笑うムルにわざとらしくため息をついて見せ、シャイロックは長い指を動かしてムルの喉をくすぐる。満足げに両目を細めた彼の、無防備に晒された急所に噛みついてやったら、このひとはどんな顔をするのかしら――ふとそんな衝動に駆られるけれど、答えなんてわかりきっていた。きっととびきり愉快そうに笑って、さてお返しにどこを噛んでやろうかと、爛々と目を光らせるのだろう。
 シャイロックの悪戯心を察知したのか、ムルがまたパチリと目を開けた。キョロキョロと目玉を動かしたあと、転がったまま手を伸ばして、シャイロックの左胸、心臓のあたりに指先で触れる。
「痛いの、シャイロック?」
「……いいえ」
「じゃあ、痛くなったら教えて! どんな風に痛いか実況して」
「厭なひと。お断りします」
「じゃあ勝手に観察する!」
「こら」
 鼻をぎゅっとつまんでやれば、痛い! と叫んで、ムルはまた笑う。
 昼下がりに私室のカウチで、じゃれるように気安く触れあって、たいして中身のない会話を交わして――そんな過ごし方をする日が来るだなんて、あの頃の自分たちに教えてやったらどんな顔をするだろうか。ふいにバケツの水を浴びせられた猫のような、驚きと警戒に満ちた表情を浮かべるムルを脳裏に描いて、シャイロックはくすくすと笑った。そのあとで彼は自分とカウンター越しに顔を見合わせて、あり得ない、と同じ数だけ首を横に振るだろう。
 昔の彼はずっと、カウンターの向こうにいるひとだった。世紀の天才学者ムル・ハートと、ベネットの酒場の高嶺の花。お互いに全く異なる美学と哲学を抱き、どうにかして相手をやり込めてやろうと、虎視眈々と睨み合う好敵手。刺激的で、油断ならぬ、唯一無二の相手。
 初めて、そうでなく向き合ったのが、きっとあの夜だった。
 いつもの席に腰を下ろし、眉を下げてこちらを見上げたムルは、なんとも言えない情けない顔をしていた。
『優しいね』
 何度だってあの声音を思い出せる。
 今夜の俺はきみには見合わないよと、だのに月に囚われた心はきみに捧げられもしないんだと、唇から出た言葉でなく、表情と音の響きで、いつになく素直に語っていた、彼。
 馬鹿なひとだと思う。なにもかも知り尽くしたような顔をして、そのくせ、自分の感情も、シャイロックの感情も、ちっともわかっていないのだ。
 ずたずたに傷ついたまま、月の光から逃れるように、シャイロックの元に来たくせに。前後不覚に酔う姿すら、晒そうとしたくせに。
 研究成果など、彼の人生の副産物にすぎない。彼の過去を示す証拠にはなるかもしれないけれど、証拠がなくたってムルがムルであることは変わらない。シャイロックの前に現れたのは、あの夜だって、それまでの彼と地続きのムルだった。だのにあんなに傷ついて、ほんとうに、馬鹿なひとだ。
 記録どころか、魂のほとんどを失っても、シャイロックにとってムルはムルだった。かつての叡智を、高潔を、恋しく慕わしく思い返しながらも、シャイロックはムルをムルと呼び、憎んで、愛おしむ。
 どうしようもなく、ずっと、そうなのだ。
 彼を飼い猫になどしない。してやらない。
 あの夜のムルも、シャイロックの膝の上でうつらうつらし始めた今のムルも、シャイロックにとってはひととき寄りついた野良猫で、それだけだ。
 たまらなく大切だけれど、心の底から憎みながらも狂おしく愛しているけれど、それでもシャイロック・ベネットの誇りにかけて、この首に首輪をつけたりなんかしない。
 気ままな野良猫だから、外の世界に気を惹かれたならば、脇目も振らず飛び出す日も来るだろう。シャイロックが与えた庇護も、彼のために誂えたカウチの寝心地の良さもすっかり忘れ、ただ好奇心にエメラルドグリーンの瞳を煌めかせ、しっぽをぴんと立てて、気高く、自由に、どこまでも駆けてゆく、いっぴきの野生の獣。世界のどこかに新しいお気に入りを見つけたら、そこに居着いて、もうシャイロックのことなど思い出しもしない。
 それでいい。
 それが、よかった。
 そんなムルだから、憎らしくて、腹立たしくて、愛おしくて、誇らしい。
 そんなムルが、シャイロックみたいなひとはシャイロックしかいないと笑うから、心臓の焼け焦げが甘く疼くのだ。
「……もうしばらく、忘れていて」
 寝入った猫にショールをふわりと掛けてやりながら、シャイロックはそっと囁いた。
 星が降ったあの夜に、初めて彼の手の温度を知った。ムル自身すらいまはもう覚えていない、シャイロックひとりの、秘め事だ。