今はもういないあなたへ - 1/4

 扉につけたベルが、からん、と鳴って、クロエは作業台から顔を上げた。
 半分開いた扉の外から、通りの賑わいが聞こえてくる。目抜き通りの喧噪に比べれば大人しいものだが、高級住宅街の静閑さとも無縁な、ほどよい賑やかさは、この店でクロエの気に入っているもののひとつだった。西の魔法使いらしくお喋りで楽しいことが好きだけれど、西の魔法使いにしては少し引っ込み思案な自分に、なんだか似合っている気がする。
 クロエが小さな店を構えたこの街自体も、そんな土地だ。師匠のラスティカは豊かの街に大きな店を開こうと言ったし(本当に一等地を買い取ってしまいそうだから怖い!)、シャイロックは神酒の歓楽街に誘ってくれた。でもそのどちらも、クロエにとっては大きすぎて、華々しすぎて、落ち着かない。かといって、生まれ育った泡の街に店を構える気には、もちろんなれなかった。
『クロエは、クロエみたいな街で、クロエみたいな店を開きたいんだね』
 ひとさし指をぴっと立てて言ったのはムルだった。それから地図を開いて、いくつかの地名に丸をつけてくれた。それを頼りに自分の足――というのは比喩で、実際は箒――で各地を巡って、最終的に落ち着いたのがこの街だ。西の国の首都である豊かの街に通じる大きな街道沿いにあって、中規模の港がある。少し古い言葉を使うなら、宿場町、と呼ぶのがいいだろう。魔法科学の発達した西の国では、現在の物流の要は街道を通る馬車ではなく、巨大な輸送船になっている。この街を行き交う人々も昔よりは減ったらしい。そのせいか、賑やかながら、どこかおっとりとあたたかい雰囲気のある街だった。古くからの住人も残っているし、新しくやってくる住人もいる。クロエのような新参者が店を開くことも、日々起きる楽しいことのひとつとして受け入れてくれたようだった。
 そうだったらいいなと、クロエが期待しているだけかもしれないけれど。
 立ち上がってドアノブに手を掛けるまでの数歩でそんなあれこれを思い浮かべたクロエは、小さく微笑みながら通りの喧噪を閉め出した。取り戻した店内の静けさが、少しの安心と少しの寂しを連れてくる。そのふたつの合わさった感情は、自分の城を持って初めて味わえる居心地の良さだ。
「ここはとてもいい街だね、クロエ」
「ラスティカ!」
 店内を振り返ると、扉を半分開けて飛び込んできた犯人――優美な翼をもつ水鳥が、変化の魔法を解いて人の姿に戻ったところだった。
「もちろん、この店も。ごきげんよう、クロエ。久しぶりだ」
「久しぶり! あんた、来るたび同じこと言ってるよ、そろそろ省略していいよ」
「そうだったかい? でも、毎回そう思うのだもの。言葉は節約しない方が楽しいよ、クロエ」
「そうかな。そうかも」
「うん。とてもいい店だね、クロエ」
「あはは、そこから繰り返すんだ! うん、ありがとう、ラスティカ。俺もそう思う。コート脱いで! お茶にしようよ」
「素敵だ。喜んでお呼ばれしよう」
 ニコニコと笑うラスティカの手を引いて、クロエは店の一角に設けたソファに座らせる。預かったコートをハンガーに掛け、手のひと振りで二階のキッチンからティーセットを呼び寄せた。
 クロエの店のソファは座り心地がよくて、気の利いたデザインだけれど、ラスティカを座らせるには少し庶民的だ。魔法舎でのお茶会でラスティカがよく出していた優雅な椅子とは趣が違う。その庶民的なソファにゆったりと機嫌良さそうに落ち着くラスティカの姿を見るたびに、クロエは少しの寂しと、不思議な誇らしさをこっそりかみしめる。
 魔法舎に召喚されたことで中断されたラスティカとクロエの二人旅は、役目を終えた後も再開されることはなかった。魔法舎で賢者の魔法使いとして暮らすあいだに、クロエはたくさんのデザイン画を描き、たくさんの服を作った。容姿も性質もさまざまに異なる魔法使いたちを引き立てる衣装を考えるのは楽しく、着てくれた彼らから賞賛の言葉を受け取ることは誇らしかった。仲間たちの衣装だけでなく、魔法舎のある中央の国で知り合った人々や、任務のために訪れた土地で出会った人々のための衣装を作ったこともある。
 心ときめかせながら、誰かのために服をデザインし、縫い上げる時間。その人が初めて袖を通す瞬間の、期待や喜びに満ちた表情。新しい衣装に身を包み、誇らしげに背筋を伸ばす姿――そういうものが自分のなによりの喜びなのだとクロエが理解するには、充分な日々だった。
 仕立屋としてやっていきたい。できるなら、自分の店を持ちたい――。クロエがおずおずと切り出すと、ラスティカは一も二もなく賛成してくれた。ラスティカが一番喜んだのは、クロエが自分の望みを、ラスティカとの旅より優先したことだった。
『ありがとう、クロエ。クロエが幸せでいてくれることは、僕のなによりの望みだ』
 あの日のラスティカの、一斉に咲いた春の花のような微笑みは、今もクロエの胸に大事にしまわれた宝物だ。
 そうして、クロエはこの地に根を張り、ラスティカは心の向くままの一人旅を続けながら、たくさんの土産を抱えてたびたびクロエの店を訪ねてくるようになった。
「そのお店に面白いものがあってね……」
「それで、お客さんが笑っちゃってさ……」
 ラスティカ直伝のやり方で淹れた香りのよいお茶と、ラスティカのお土産のお菓子をお供に、歓談にふける。お茶のお代わりを二度したところで、ラスティカは紺碧の瞳をきらきらと輝かせながら店の奥の作業台に目を向けた。お楽しみに取っておいた特別なデザートにフォークを伸ばすときのような、うずうずとそわそわとわくわくをかき混ぜた表情で、ラスティカは両手の指を胸の前で絡め合わせる。
「そろそろ、見せて貰っていいかい? 今はどんな服を作っているのかな」
「四十分! 今日はけっこう我慢したね、ラスティカ!」
 クロエは手を叩いて笑い声を上げ、立ち上がって作業台に向かった。そのあとをラスティカが、鳥の雛のようにいそいそとついてくる。
「服自体はもう縫い上がってるんだけど、刺繍を足したくなっちゃって」
 そう言いながらクロエが手に取った刺繍用の円い枠の中では、百合の花を象った縫い取りが八割ほど形になっていた。図案の途切れたところから絹糸が長く伸びて、ピンクッションに刺した刺繍針につながっている。
「おや? これは……」
 ラスティカが長い睫毛をぱちりと瞬かせ、手のひらを喉元に触れさせた。
「うん」
 頷きながら、クロエは指先で図案を辿る。炎にも似た、百合の花のシルエット。それはすべて黒い糸で表現されていた。
 黒いのは、刺繍だけではない。作業台に広げられたその衣装は、レース飾りやさまざまな形のボタン、縫い留めた装飾品も含めて、すべて黒一色に統一されている。
「色々考えたんだけど、やっぱり、入れたくてさ」
「真っ黒なんだね。これは……喪服かな」
「……うん」
 クロエはラスティカを振り仰いで、晴天の空の色の瞳を見つめた。
 いつか彼に、この話をしようと思っていた。たぶんそれが今日だ。
「約束をね、したんだ。シャイロックのために、喪服を作るって」