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ぴんと張った布地に刺繍針の先をくぐらせながら、クロエは昔語りを終えて、小さく笑う。
「俺ね、シャイロックのことは結局、ずっとよくわからないままだった。どんなことが嬉しいのかな、なにが一番悲しいのかな、わかりたかったけど、なんだか難しくてさ」
裏から刺した針先をつまみ、強すぎも弱すぎもしない、ちょうどの力加減で糸を引いて、またひと刺し。クロエの正確な手技が、布の上に黒い百合の花を開かせていく。魔法を使えばあっという間に仕上げることもできるけれど、自分の手の中で少しずつ形になっていくこの時間が、クロエは好きだ。
布も、糸も、ボタンも、レースも、針やはさみも、狭い世界に閉じ込められていた頃からずっと、クロエの忠実な友だった。クロエが決めた場所に行儀良く落ち着いて、クロエの夢を咲かせてくれる。
それだけあれば生きていけると思っていた日もあった。
けれど今のクロエはずっとずっと欲張りで、それだけではどうしたって寂しいのだ。
「約束させてって言ったのは俺なのに、だんだん怖くなったりもしたよ。俺が勝手に約束にしたから、シャイロックを困らせちゃったかなとか、シャイロックがシャイロックのための大事な時間を過ごす服を、俺が作っていいのかなあとか」
「シャイロックが、クロエに、作って欲しいと言ったんだろう?」
作業部屋のスツールに腰かけたラスティカが、いつも通りのおっとりとした声音で問いかける。
「それなら、きみが悩むことなんてひとつもないさ。それに、きみは僕の知る限り、世界一の仕立屋さんだ。自信を持って」
「あはは、ありがとうラスティカ! 大丈夫だよ。自信がなかったのは本当だけど……、でもほら、俺、ちゃんと作ってるだろ?」
「ああ……、そうだね。そうだった。クロエはもう、立派な店主さんだものね」
にっこりと笑うラスティカを見上げて、クロエは刺繍の手を止めた。
少し伸び上がって、ラスティカのミルクティー色の柔らかな髪を、よしよしと撫でてやる。
「おや。寝癖がついていた?」
「ううん。ラスティカはかっこいいよ」
「そう?」
「世界一の音楽家で、世界一のお師匠様だよ」
「ありがとう。嬉しいな」
ほわほわと花びらが零れるように、ラスティカが笑み崩れた。
ラスティカのことなら、クロエにもずいぶんわかるようになった。優しいこのひとは、クロエが昔より強くなったことを心から喜んでくれている。そして、ほんの少しだけ、寂しがっている。
ラスティカのあたたかで真摯な言葉が引っ込み思案なクロエを浮上させるたびに、クロエのための約束を口にするたびに、ラスティカ自身も確かに喜びを得ていた。ラスティカに与えられてばかりだと落ち込んでいた昔には、知らなかったことだ。
大切なひとのために自分がなにかをしてやれる。それは途方もなく幸せなことなのだと、今のクロエは知っている。そしてクロエ自身も誰かの大切なひとになれる――もうなっているのだということも。
ふたたび針と布を手に取り、クロエは作業台に向き直った。隣でラスティカが微笑む気配がする。
針先を布に刺して、つまんで、引く。単純だが正確性を要求される動作を繰り返すたびに、つややかな布地の上に黒々とした花が咲いていく。最後に布を裏返して、糸の端を丁寧に処理し、枠を外した。
「っ、……できた!」
漆黒のドレスシャツを両手で掲げて、クロエは快哉を叫んだ。
部屋の隅に置いていたトルソーに駆け寄り、指のひと振りでシャイロックのサイズに合わせてから、手早く、けれども慎重に、完成させたシャツを着せつける。
わあ、とラスティカの上げた感嘆の声が耳に心地よい。
透けるレースを重ねた袖を上からまっすぐ撫で下ろし、裾を軽く引いて、形を整える。
シャツの胴にはとろりと柔らかな絹地が、胸元に寄せたタックからゆったりと裾に向かって流れていた。高い襟や袖口にはフリルが控えめにあしらわれ、背中の中心には小さなくるみボタンが並ぶ。
喪服だから、きらきらと光るビジューのたぐいは一切ない。もっとも目を惹く装飾は、胸元から裾にかけてをびっしりと埋める精緻な刺繍だ。
全体を見るために数歩下がったクロエの肩を、ラスティカの両手がそっと受け止めた。
「とても素敵だ」
ため息のように、うっとりと、ラスティカが囁いた。
「近くで見ていいかい?」
「もちろん」
弾む足取りでトルソーに近寄ったラスティカは、壊れ物を扱うような慎重な手つきで前身頃の裾を持ち上げ、まじまじと見入った。青空のように澄んだ彼の瞳が、クロエが布の上に描き出した図案のひとつひとつに向けられるのを、クロエは息を詰めて見守る。
どのくらい時間が経ったろう、ラスティカはゆっくりと姿勢を起こして、クロエを振り返った。すべらかな頬を赤く上気させて、クロエ、と、彼は唇を震わせる。
「これは……これは、僕らだ。そうだろう?」
「……うん」
涙声をごまかすように笑って、クロエはラスティカのもとに歩み寄った。
布地と同じ色の細い糸でクロエが縫い取ったのは、魔法舎でともに過ごした日々の物語だ。自分たちを呼び集めたエレベーター、各国にそびえ立つ高い塔、空を流れる星々、夜空に舞う花びら。精霊たち、魔獣たち、魔女に魔法使い、異世界から訪れたお客様、厄災の力を宿した生物や道具。北の凍てつく氷雪、東の石畳を濡らした雨、南のあたたかな日差し、西の港に吹く風、中央の街の賑わい。ラスティカの奏でる音楽、シャイロックのくゆらす煙、ムルの指から弾ける花火、クロエの裁縫箱から飛び出すボタンにリボンにレース、とりどりの飾りたち。二十一通りの形のシュガー、魔道具、アミュレット、空を駆ける箒の軌跡、それぞれの得意な魔法、呪文の言葉と意味、それを唱える声の響き。
夜の空を支配し、この世界に滅びをもたらそうと迫りくる、怖ろしくも美しい厄災。
そして、もう名前も顔もぼんやりとしか思い出せなくなってしまった、慕わしく懐かしい、かのひとの面影――。
とびきり賑やかで、毎日胸が高鳴って、辛いことも嬉しいことも、楽しいことも苦しいことも、天にも昇るような幸福や、胸を押しつぶすような悲しみさえも、嵐のように目まぐるしく押し寄せた、短くも濃密だった、あの日々だ。
クロエよりずっとずっと長く生きてきたシャイロックにとっては、瞬きのような儚い時間の出来事だったかもしれない。それでも、なくしたものを悼むための服を、クロエからシャイロックに贈るなら、これがよかった。
前身頃の高い位置、心臓に重なる箇所を、クロエは指先でそっと撫でる。つい先程、クロエが最後に完成させた縫い取りが、その場所で典雅に咲いていた。
ラスティカが目を細めて、クロエの隣に自分の指を添えた。愛おしげに刺繍の凹凸を辿る彼の喉元には、白くなめらかな肌だけが見えている。
炎にも似た、黒い百合のしるし。
今はもう、自分たちの記憶の中にしかない。
クロエはすんと鼻を啜ると、両手を胸元でぎゅっと握りしめた。幾度か深呼吸をして、ゆるゆると顔を上げる。
「……俺、まだ、魔法使いだ……」
「そうだよ」
独り言のように呟いた言葉には、優しい肯定が返ってきた。
「きみは素敵な仕立屋さんで、僕の素敵なお弟子さんで、素敵な西の魔法使いさ」
「うん、……うん」
こぶしでぐっと涙を拭い、クロエは隣に立つ師をきりりと見上げた。
「あのさ、ラスティカ」
「うん、いいよ」
「まだなにも言ってないよ!?」
「だって、行きたいんだろう? 行こうよ、クロエ。お届け物を持って、神酒の歓楽街まで飛んでいこう。さあ、支度をして。きみのジャケットはどこ?」
「待って待って待って!?」
今すぐにも飛び立ちそうなラスティカを制しながら、クロエは笑い声を上げた。普段のラスティカは他人に世話をされることに慣れた、おっとりとした貴公子なのに、ときどき妙に思い切りが良い。二人で旅をしていた頃のクロエは、たびたびそんなラスティカに振り回されたものだ。巻き込まれるあれやこれやに困ることも多かったけれど、振り返ってみればそのほとんどが楽しい思い出だ。
懐かしさをかみしめながらクロエは手早く店じまいをした。幸い、急ぎの依頼や来客の予定はしばらくない。戸棚から出した紙箱にシャイロックへの贈り物を入れて、店の包装紙できれいに包んでから、魔法で小さく縮める。軽くて大きな箱は、箒でそのまま運ぶには向かない。
外出用のジャケットを羽織って、愛用の箒を呼び出せば、外出の支度はすっかり完成だ。
「『魔女のタッキュウビン』だね」
「俺たち魔女じゃないから、『魔法使いのタッキュウビン』じゃない?」
顔を見合わせて笑ったあとに、その不思議な言葉を教えてくれた誰かのことを思い出して、二人はほろ苦く眉を下げる。まだらに薄れていく記憶を繋ぎ止める方法は、いまだに誰も見つけられないままだ。