今はもういないあなたへ - 2/4

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 真夜中をとうに過ぎた時刻。月明かりの差す中庭にそっと足を踏み入れたクロエに、シャイロックはわずかにまぶたを持ち上げて驚きを示し、それから穏やかに微笑んだ。
「こんばんは、クロエ。またデザインのお悩みですか?」
「ううん。寝ようと思ったんだけど、窓からシャイロックが見えたから……」
「おや、私に会いにいらしてくださったんです? それは光栄ですね。よかったらお掛けになって」
 言葉と同時に、主のない椅子がクロエを招くようにするりと下がる。礼を言いながら腰を下ろすとすぐに、ワイングラスが滑るように差し出された。丁寧にもてなされるくすぐったさに、クロエは唇を綻ばせる。
「あいにくこちらの瓶しか持ち込んでいませんが、構いませんか?」
「うん、もちろん!」
「では乾杯」
「乾杯!」
 互いにグラスを掲げあってから、クロエは身体をひねって夜空の月に向けてもグラスを持ち上げ、それから唇をつけた。シャイロックの好みらしい赤ワインはクロエには少し口当たりが重いけれど、背伸びの気分は悪くない。
「私に合わせてくださらなくてもいいのに」
 クロエの仕草をたしなめるように言いながら、シャイロックが眉を下げて笑った。その様子があまり見慣れないもののように感じて、クロエは内心で首を傾げた。なんだか……、そう、どこか幼い印象があるのだ。
「気にしないで! 俺も一度やってみたかったんだ、お月様と晩酌」
「そうでしたか。ご感想は?」
「うーん、なんだか不思議。でも、月のことは昔よりは怖くなくなったかも。ムルの好きなひとだもん」
「……そう」
 指先でグラスのふちをいじりながら、つい、とシャイロックが顎を上げる。夜空に向けられる深紅の瞳が、月の光を受けてきらめいた。
 横顔は静かで、その奥で彼が何を想っているのかクロエには想像もつかない。
「あのさ、シャイロック。このあいだはごめんね」
「……? 何のお話です?」
「ラングレヌス島に行ったとき。俺、近くにいたのに、助けに行けなかっただろ。シャイロックは厄災の傷で動けなくなることがあるって、わかってたのに」
「ああ……。そんなこと」
 ゆったりと首を左右に振って、シャイロックは微笑んだ。
「気になさらなくていいんですよ。それこそ、私が油断していたんです。――もしかして、クロエ。今夜はそれを伝えにいらしたんです?」
「ううん! ただなんとなくシャイロックと話したくなって来ただけ。でも謝りたいなって思ってたのも本当だよ。島にいたときは俺、飛行船のことばかり気にしちゃってたから……。シャイロックが無事で良かった。あのときのムル、すごかったよね。俺たちよりずっと遠くにいたのにさ、すっごいスピードでシャイロックのとこまで飛んでって!」
 話しながら興奮してきて、クロエは思わず前のめりに乗り出した。あのときは本当に、恐怖で竦み上がったのだ。
 燃える心臓を抱えて蹲るシャイロックは、街がひとつ消し飛ぶようなすさまじい砲撃の軌道上に一人取り残されていた。異変に気づいて振り返ったときはもう、その距離は絶望的に遠すぎて、クロエは咄嗟に動けなかった。ああ無理だ、どうすれば――と硬直したクロエの横を、弾丸と化したムルが、物も言わずにすっ飛んでいった。あまりのスピードに、菫色の髪はまっすぐ後方に流れ、まるでムル自身が高速で空を飛ぶ機械のようだった。
 魔法使いは、心で魔法を使う。
 魔法使いの魔法は、だからときに、なによりも雄弁だ。
 そうか、と、クロエは腑に落ちる。今その話をしたくなったのは、月を見上げるシャイロックの横顔が、一瞬で通り過ぎていったあの日のムルの横顔と、どこか似ていたからだ。
「ムルって本当に、――」
 言おうとした言葉は、唇にそっと触れる、シャイロックの指先に阻まれた。
「その先の言葉は、あなたの胸にしまっていらして、クロエ」
「シャイロック……?」
「特にこんな、怖ろしい月明かりの下ではね」
 クロエの下唇をついっとなぞって、しなやかな白い指が離れていく。その蠱惑的な仕草と、吐息混じりの囁きのはらむ色香に、けれども彼の浮かべる表情だけが不似合いだった。帰る道を見失った迷い子のように、紅い瞳が揺れている。
 理由は知らない。けれど、彼がひどく傷ついていることだけは、クロエにもわかった。
 奇妙な感情が、クロエの胸に広がった。庇護欲、と呼ぶのが一番近いだろうか。
 シャイロックはグラスを傾けると、くいと呷った。クロエもつられたようにグラスに唇をつける。
 ごめんね、と、ふたたび口にするのはたやすい。クロエはけれど、その言葉を今度は言わずに飲み込んだ。代わりに少しだけ視線を落として、口に含んだ酒精をゆっくりと味わう。甘さ、酸っぱさ、苦さ、渋さ、芳醇な香り、頬を火照らせる熱と酩酊。シャイロックの愛するワインを語る言葉は、愛そのものを語る言葉にも似ている。
 お喋りが好きなクロエは、沈黙が少し苦手だ。苦手だけれど、そわそわと落ち着かない苦手な時間を過ごすことも、誰かともっと仲良くなるためのスパイスだ。魔法舎に来て、そんな風に思えるようになった。西の魔法使いって――と、ヒースクリフあたりが聞いたら苦笑しそうな話だけれど。
 好きなものも嫌いなものも、傷つくことも嬉しいことも、愛するものも憎むものも、西に生まれたものたちは極端だ。自分のそれを手放せないから、他人のそれも重んじる。
「……クロエ」
 グラスの中身を半分ほどに減らした頃、シャイロックがぽつりと静かな声を発した。顔を上げると、彼はまた月を見つめていた。青白い光に照らされた端正な横顔をクロエに見せたまま、言葉を続ける。
「私の酔狂にお付き合いくださる優しいあなたに、ひとつ、我儘を言っても?」
「っ、もちろん! なんでも言って!」
「喪服を……。私のために、とびきりの喪服を縫ってくださいませんか。いつか、必要になるときまでに」
「……喪服?」
「私たち魔法使いは、死ねば石になって、ばらばらに砕け散ります。遺体は残らないし、人間のような葬儀をすることもない。ですが、喪った存在を悼んで、かつて存在したものへと想いを馳せるのは、人も魔法使いも変わりません。そんなときにふさわしい装いがあれば、喪失にも悦楽を見出せるでしょう。怖ろしく美しいものに相対して美酒の杯を傾けるときのように、胸がざわめいて、……ときめく」
「――――」
 誰を、とか。
 いつ、とか。
 問うべき言葉は、いくらでもあっただろう。けれどそれらはクロエの喉元で勢いを失って、すごすごと腹の中へ戻っていった。
 代わりにクロエの脳裏に、一幅の絵のような光景が広がった。誰も客のいない、静まりかえった彼の店に、漆黒を纏ったシャイロックが、ひとりきり佇んでいる。
 グラスはふたつ。けれど、彼と言葉を交わすものはなく、ただ彼がマドラーを動かす、からからという音だけが店内に響く。
 その光景はひどく寂しく、切なく――けれども、否定しがたく美しかった。
「お願いできますか? クロエ」
 優美なグラスを丁寧にテーブルに置き、クロエはぴんと背を伸ばす。
 昏い空に居座る厄災にちらりと目をやってから、ひとつ深呼吸して、そのあいだに応える言葉を決めた。
「うん。わかった。……約束するよ、シャイロック」
 きっぱりと押し出した声に、シャイロックがぱっと顔をこちらに向けた。眉をひそめ、咎める声音でクロエを呼ぶ。
「クロエ」
 予想通りの反応に、クロエはくしゃりと笑った。
「ラスティカってさ、すぐに約束をくれちゃうんだ。俺、それがすごく心配で、でもちょっと嬉しくて……、ラスティカにも言ったんだよ。そんなに簡単に言っちゃダメだよって。でも、『簡単に言ってるわけじゃないよ』って言うんだよね。大事な人との、大事な約束しかしてないよってさ。なんだか自慢げだし。困っちゃうよねえ」
「……ええ」
「でもね、俺、たぶんラスティカが羨ましかったんだよ。それに、シャイロックに我儘言われるなんて初めてだもん。すっごい嬉しいから、俺の我儘も聞いて欲しいんだ。ダメ?」
「……いけない人。いつの間に駆け引きを覚えたんです?」
「そりゃあ、先生がいいもん」
「ふふふ」
 仕方ないと言いたげに笑い声を漏らして、シャイロックは頷いた。
「ありがとうございます、クロエ。楽しみにしていますね」
 差し出されたワイングラスに、クロエも同じ仕草を合わせる。喉に流れたアルコールの熱さは、クロエにとって、ずっと忘れられないものになった。