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神酒の歓楽街にあるベネットの店は、魔法使い専門の酒場だ。人間には入り口を見つけることすらできないし、シャイロックが長期間留守にするときは魔法使いからも隠れてしまう。今日は無事に店の入り口までたどり着けたので、閉店中ということはなさそうだ。
とはいえまだ日は高く、飴色のドアにはクローズドの札が下がっていた。開店時間までカフェにでも行こうかな、それとも目抜き通りでウィンドウショッピング――と思案し始めたクロエをよそに、ラスティカはまるで無造作にドアを押し開いた。
「あっ、こら、ラスティカ! ダメだろ!」
「ごきげんよう、シャイロック。『タッキュウビン』を届けに来たよ」
焦るクロエに構わず、ラスティカは店内をひょいと覗き込んで朗らかに告げる。
「おや、いらっしゃい、ラスティカ。それから、そちらにいるのはクロエでしょう。どうぞ、入ってくださいな」
耳に懐かしい、優しい声に招かれて、観念したクロエはおずおずと扉をくぐった。バーカウンターの内側でグラスを拭いていたシャイロックが、二人の姿を認めてにこやかな笑みを浮かべる。
「ご、ごめんね、開店前に……」
「どうぞお気になさらず。その扉には、招かれざるものは開けられないように魔法が掛けてあるんです」
「それはとても便利だね。開店中は、魔法使いなら誰でも入れるのかな」
「その通りです――と言いたいところですが、そうでもありません。たまに、とても困ったお客様もいらっしゃいますからね。私がなにを言っても聞き入れてくださらない強情な方からは、店の入り口を隠してしまうんです。もちろん、私より強い魔法使いが相手では、役に立ちませんけど」
「オズ様や、フィガロ様とか?」
「あのかたがたを閉め出すなんて、とてもとても」
グラスを拭き終えた様子のシャイロックと軽妙な会話を交わしながら、ラスティカはすたすたと店の奥へ入っていく。後に続こうとした足がうまく動かなくて、クロエは細く息を吐いた。なんだか、やけに緊張してしまう。仲間の魔法使いに服を贈るなんて、もうすっかり慣れたと思っていたのに。
「クロエ?」
「クロエ」
二人を迎えにカウンターの内側から出てきたシャイロックが、不思議そうに首を傾げる。ラスティカが振り返り、穏やかに微笑んだ。
おいで、とか、大丈夫だよ、とか。あるいはシャイロックに向かって、クロエからの贈り物があるんだよと伝えるだとか。一緒にいた頃のラスティカなら、そんな行動を取っていた気がする。けれど今のラスティカはクロエの名前を呼ぶだけだ。
その信頼が嬉しくて、胸に勇気の花がひらく。
「《スイスピシーボ・ヴォイティンゴーク》」
呪文で元の大きさに戻した箱を捧げるように両手で持ち、クロエはゆっくりと足を踏み出した。一歩、二歩。さして広くはないベネットの店のちょうど真ん中で、大切な年上の友人の顔を、まっすぐ見上げる。
「シャイロック! あの……、だいぶ待たせちゃったけど、約束した服を作ったよ。受け取ってくれる?」
紅い瞳をきょとんと円くして、シャイロックはぱちりと一度だけ長い睫毛を上下させた。それからやわらかく目を細めて、ふわりと甘やかに微笑む。
返答を貰う前にもう、それだけで、彼がとても喜んでくれているのだとクロエにも充分にわかった。
「ええ、もちろん。ありがとうございます、クロエ。……ここで開けても?」
「っ、うん」
シャイロックは箱をカウンターに置くと、丁寧に包装を解いた。中には完成したばかりのドレスシャツ、その上に着るボレロ、共布のスラックスと、ふわりと柔らかなリボンタイが収められている。
「…………」
固唾を呑んで見つめるクロエの前で、シャイロックは優雅な手つきでシャツを広げ、ほう、とため息をついた。
彼の細くしなやかな指先が、クロエの施した刺繍を確かめるようになぞっていく。いくつかの意匠の上で、指はひととき動きを止めた。飛行船の意匠、花火を象ったステッチ、厄災の美しさと脅威を描いた図案――。そのたびに形の良い眉は角度を変え、口角がわずかに上がる。
たっぷりと時間を掛けて刺繍を辿り、最後に左胸の、かつて彼の胸にも咲いていた黒百合の紋章を撫でて、シャイロックは長い睫毛をしっとりと伏せた。
「――《インヴィーベル》」
唱えられた呪文は、とっておきの秘密をこっそり耳打ちするような声音だった。ドアの外でからりと何かが回る音がして、店内の静けさがいっそう増す。
「気分がいいので、今日はもう、臨時休業にしてしまいます。今夜は心ゆくまで思い出と喪失に浸る夜にしましょう。あなたの誂えてくださったこの喪服にふさわしいものにね。……クロエ」
手にしたシャツを大切そうに胸に抱き、シャイロックはクロエに笑いかけた。
「あなたさえ良ければ、私の酔狂にまたお付き合いくださいます?」
「っ、うん! もちろん……!」
「おや。僕は交ぜてもらえないのかい?」
「いいえ、まさか。あなたもぜひ、ラスティカ」
「よかった。ありがたくお呼ばれしよう。服はこのまま? 着替えた方がいい?」
「そのままで素敵ですけど、お好きになさって。私は失礼して、こちらに――」
「あっ、俺にさせて! 《スイスピシーボ・ヴォイティンゴーク》!」
クロエは張り切って呪文を唱えた。シャイロックが制服のように着ていたいつもの一式と、クロエが持参した新品の衣装が、一瞬で入れ替わる。
ベルベットの襟なしのボレロの下に、刺繍を施した丈の長いドレスシャツ。長い脚を包むぴったりとしたスラックスは、側章にやはり刺繍を入れた。リボンタイが襟元でゆったりと結ばれ、後頭部のシニヨンにくるりと組紐が絡んで、できあがりだ。
色こそ黒でまとめ上げているけれど、人間社会の葬儀には到底出られないような、奇抜な装いだろう。それでもこれが、クロエが精魂を込めた、彼のためだけの喪服だった。魔法使いの生きる長い年月の中で刹那のようなひととき、彼らがともに紡いだ物語を、しとやかに、華やかに、胸をときめかせながら、永遠に喪われたものをせつなく偲ぶための。
初めての舞踏会へと出かける令嬢のようにはにかんで、シャイロックは自分の装いを見下ろし、くるりと美しいターンをした。
「とてもよく似合っているよ、シャイロック。僕らの物語をきみが纏ってここにいる。なんて素晴らしいんだろう」
「おや、先にご覧になっていらしたんです? 少し妬けます」
「ふふ。ではお詫びと、お呼ばれのお礼に、僕からは音楽を」
ラスティカはフロアの隅に置かれたチェンバロに歩み寄り、演奏者用の椅子に腰を下ろした。そのチェンバロは、賢者の魔法使いたちがたびたび訪れるようになってから、この店に新しく置かれたものだった。ラスティカがふたたび旅の空の下に戻ったのち、その蓋が開かれる機会が一体幾度あったのか、クロエは知らない。これもまた、喪われた日々の遺物だ。
ラスティカの指が生み出す調べに身を浸しながら、クロエはお気に入りのスツールに落ち着いた。いつの間にかカウンターの中に戻っていたシャイロックが、逆三角形のグラスを三客といくつかの瓶を台の上に並べ、シェイカーを手に取った。
そのときだ。
シャイロックが閉ざしたはずの扉が音もなく開いて、紫色の優美な猫がするりと忍び込んできた。猫は店内を我が物顔に歩き回り、肉球をタンと床に弾ませて飛び上がると、菫色の髪をした青年へと姿を変えて、カウチの上に着地する。
「やあ、クロエ、ラスティカ、久しぶり。それから、ただいま、シャイロック。きみがここにいるのに店を開けないとは、珍しいね」
高く組んだ足の上に両手をのせたムルは、仰け反るようにカウチに背を預けて笑みを浮かべる。シャイロックが呆れたように肩をすくめた。
「こんにちは、ムル。その口癖も、そろそろ改めたらいかがです? 世界中にご自宅をお持ちでしょうに」
「だって、きみはまだ俺のカウチをここに置いているのだもの。それはクロエの新作? なんでもない日に喪服を纏うきみって、やっぱり最高にイカれてていいね。そして店は本日臨時休業と――うん、なるほど。《エアニュー・ランブル》!」
そこまで一人で蕩々と喋ってから、ムルはパチンと指を鳴らした。社交界でも通用しそうなチャコールブラウンのスーツに装いを変えて、すらりと立ち上がる。
「この弔いの夕べに、俺も参加しても? それとも、弔われるのが俺かな」
「あなたときたら、本当に憎たらしい。ええ、構いませんよ、わざわざ着替えてくださった誠意に免じて」
「誠意か。きみの口から聞く言葉としては新鮮でいいね。それは何に対する誠意? きみ? きみのその服? その服を作ってくれた素敵な仕立屋さん?」
「まったく……」
顔をしかめながらも、シャイロックが並べたカクテルグラスは四客に増えている。くすくすと喉を震わせたムルは、にゃあんと愛らしく鳴くことも、陽気に宙返りをすることもなく、胸に手を当てて優雅に一礼をすると、またカウチに腰を下ろした。
その様子を黙って眺めていたクロエは、不意に光を放つようなネオングリーンの瞳に射すくめられて、はっと肩を揺らした。
「クロエ」
両腕を大きく開いて、ムルが呼ぶ。
「おいで。俺と再会のハグをして、クロエ」
「……ムル……」
「そう。ムルだよ」
うん、と頷き、クロエはスツールを下ろると、カウチに座ったままのムルにかがみ込んだ。ムルの手が、なだめるようにクロエの背中をぽんぽんと叩く。年長者の仕草だった。
誰彼構わず懐っこく飛びついて振り回し、魔法舎にたびたび騒ぎと混乱を巻き起こしていた、幼い子供か気紛れな猫のようなムルは、もう、どこにもいない。
厄災の影響で魂の欠片から実体化した、冷ややかで挑発的な目をしたムルに会うことも、もうない。
賢者の魔法使いとしてさまざまな事件と対峙する中で、ムルは少しずつ魂を修復していき、記憶と知識を取り戻し、その振る舞いも徐々に変わっていった。けれど不思議なことに、今のムルは、シャイロックが折に触れ語り聞かせてくれた、魂が砕ける前のムルに戻ったようには見えない。知性と探究心が際立つ言動の中にも、彼の愛情や気遣いを感じることは確かにあるし、弾む声や、無邪気な笑顔、周囲の意表を突く身ごなしも、まるきり失われてしまいはしなかった。
なぜそうなったのか、誰もわからなかった。あれほどに恋い慕った厄災の消滅が、彼の精神に決定的な打撃をもたらしたのか。シャイロックの庇護と、魔法舎の仲間たちのもとで過ごした、二度目の少年時代と呼ぶべき日々が、彼の価値観や情緒に大きな変化を与えたのか。あるいは、今のムルこそが彼の本質であり、かつてのムルは無慈悲な探求者の仮面を被り続けていただけなのか――。
ある日には世紀の智者ムルが恋しいと寂しげに零し、また別のある日には膝になつく彼を可愛いムルと呼んで撫でていたシャイロックが、今ここにいるムルにどんな感情を抱いているのか、クロエは知らない。シャイロックの難解さの中でも、以前からずっとそれは、クロエにとっての一番の謎だ。
ただひとつわかるのは、シャイロックが偲ぶ過去には、いつもムルの姿があることだ。
「クロエは、このムルは嫌い?」
身体を離したクロエの目を、ムルは悪戯っぽく覗き込む。
「っ、違うよ!」
「僕らはきみが大好きだよ、ムル。大好きだけれど、寂しいんだ」
チェンバロを奏でる手を止めたラスティカが、クロエと入れ替わるようにムルを抱きしめた。
「目の前にいるひとを大切に思う気持ちと、もう会えないひとがいることを悲しむ気持ちを、僕らは同時に持てるし、愛がふたつあるからって、ひとつひとつが小さくなりはしないよ」
「……そうだね」
ラスティカ、きみにはかなわない。ムルがそう呟いて、苦笑する。からかってごめんね、クロエ! と茶目っ気たっぷりに片目を瞑られて、クロエは慌てて首を横に振った。
「――だからこそ、今触れ合える愛しいひとたちと過ごす時間に、取り戻せない過去を語り、懐かしみ、嘆いて、このうえなく甘美な痛苦に酔いしれたいんです。そうでしょう?」
シャイロックが歌うように言いながら、四客のカクテルグラスをカウンターに並べた。翠、紫、蒼、紅――。それぞれに異なる、透きとおった色の中に、チカチカときらめく星屑と七色の花弁が渦巻いている。
立ち上がったムルが、真っ先に紅色のカクテルを手に取った。ラスティカが微笑んで、紫色のカクテルに手を伸ばす。クロエは二人を見比べてから蒼を選び、最後の翠を手にしたシャイロックに、ムルが笑いかける。
「きみもその城から出ておいでよ、シャイロック。そして、これを飲み干したら、俺と踊って」
レトリックも駆け引きもない、純朴な若者めいた率直な誘いに、シャイロックは不意を突かれたような顔をした。ぱちぱちと瞬きをして、それから、ころころと笑い出す。
「あなたにも、そんな可愛いおねだりができたなんて。――ええ、いいですよ。この一杯を飲み干すまでに、私の気持ちが変わってしまわなければね。月に失恋した世紀の迷惑男、ムル・ハート」
「酷いな、シャイロック!」
ムルが大仰に嘆き、ラスティカとクロエは声を揃えて笑った。
シャイロックがくるりと回転するたび、たっぷりの刺繍を施したシャツの裾がひらひらと舞う。甘いカクテルをちびちびと舐めながら、クロエはうっとりとその光景を見つめた。
約束を交わしたあの月の夜、クロエが思い浮かべた光景の中で、喪服を纏ったシャイロックはひとりだった。孤高の花の美しさに抗いがたく心惹かれながらも、彼のためのデザイン画を描きながら、クロエが願っていたのは別のことだった。
恐怖も、悲しみも、苦痛すらも楽しんでしまうのが西の魔法使いの流儀だ。それでもそのとき、隣に友人がいるならば、どれだけいいだろう。
シャイロックが口にした『いつか』の日に、この優しい年上の友人に寄り添っていられたら。せめて、ともに過ごした日々の記憶だけでも、彼の手元に置いておけたら。
自分の小さな城のお気に入りの作業台で、一針一針を縫うたびに、そんなことを思っていた。きっとクロエにとってはあの時間こそが、過去を悼む儀式だった。
「クロエ、僕らも踊ろう」
ラスティカに手を取られ、クロエも立ち上がる。魔法を掛けたチェンバロは、ラスティカが手を離したあとも、彼の弾き鳴らした旋律をそのまま辿った。
どこか物悲しいのにどこか陽気で、リズミカルなのに切なくて。きらめく音の粒に身を任せ、即興のステップを踏む。
「ねえクロエ。ひとつおねだりがあるのだけど……」
「いいよ!」
「あはは、まだなにも言っていないよ」
「わかるもん。次はラスティカに作ってあげる。そしたらまた、こうやって集まりたいな」
「そうしよう。ああ、楽しみだな。未来に楽しみが待っているのは、なによりも素敵なことだね」
優雅に踊りながら微笑むラスティカは、もう花嫁を探さない。彼が魔道具の鳥籠を出すところも、クロエはもうずいぶん長いこと見ていない。
誰もがなにかを喪って、生きる場所も離ればなれになって、それでもまだ、魔法使いの命は続くのだ。
クロエは願う。
どうか誰も、ひとり寂しく石になってしまわないで。
あの濃密な日々は終わってしまったけれど、記憶は今も鮮やかに、胸にしまわれている。大切な友人は相変わらず大切なままで、どこにいたって想っていられる。
クロエの実年齢は見た目の年齢のせいぜい倍で、魔法使いの命の途方もなさをまだ知らない。その長さを想像するたび、今も少しだけ怖ろしい。けれど、その年月を先に歩いた友が、クロエを振り返って笑ってくれるのだ。
踊り疲れたら、たくさんお喋りをしよう。悲しかったことも、もう会えないひとのことも、たくさん話そう。泣きたくなったら泣いて、楽しくなったら笑って。
夜空を箒で駆けるのもいい。月のない、静かで、平和で、寂しい空に、シャイロックの纏う喪服の裾がふわりとなびけば、きっとぞくぞくするほど美しい。
自分たちの弔いの夜は、そうやって過ぎていく。そしてまた、生きていくのだ。
約束はもう、怖くない。
きっと次の約束も、少しの切なさと、誇らしさと、未来へのかぎりない希望をくれるだろう。