最後のピース

「シャイロック」
 灯りを落としたバーの中、煙管を片手にカウンターの内側に佇んでいたシャイロックは、名を呼ぶ声にゆるりと片眉を上げた。
「扉の鍵はかけていた筈ですけれど」
「うん、かかってたね」
 悪びれる様子もなく歩み寄るムルを見つめて、呆れたため息をつく。鍵だけでなく軽い封印魔法も施していた扉をなんなく抜けてきた友人は、カウンター前のスツールにぽんと飛び乗るとくるりと回った。
 ムルのスミレ色の髪が遠心力に従ってふわりと広がる。
「灯りもつけてない! 今日は臨時休業?」
「ええ。奉仕したい気分じゃないんです。お飲みになりたいならご自由になさって」
「やった! じゃあ、あの棚のお酒の端から端まで全部混ぜちゃう!」
「………」
 [[rb:眇 > すが]]めた目でじとりとムルを睨み、シャイロックは深く吸った煙をムルに向けて思い切り吐き出した。ムルが指差したのはシャイロックがとっておきを収めたキャビネットであり、そこに並ぶ一本一本が、高価な宝石にも劣らない価値のあるものだ。
「――リクエストをどうぞ、お客様」
「わーい! それじゃあシャイロック、俺の魂の欠片を頂戴! 全部ね!」
 明るく弾ませた声音のまま、ムルはそう言って両手を開いた。
 シャイロックが紅色の目を大きく見開いた。震えた指先が、魔道具の煙管を取り落としかける。
「………、ムル……、あなた……」
「俺が知ってるってきみも知ってた筈だよ、シャイロック。きみは俺の欠片をたくさん集めて、俺に戻さずにしまい込んでる。賢者様に預けて逃がしてしまった欠片も、追いかけて回収してたよね。戻そうか戻すまいか葛藤するきみは魅力的だし、俺は俺を気に入ってるから、構わなかったけれど」
「……でしたら、これからもそうなさって。ひとを観察する悪趣味は見逃して差し上げます」
「残念ながら、そうも行かない。ねえシャイロック、先生会議の結論はどうなった? 三日後に来襲する厄災を、俺たちは全員死なずに撃退できそう?」
「――――」
 ムルの追求に、シャイロックは長い睫毛を伏せることで答えに代える。
 この一年間、魔法舎に集った賢者の魔法使いは、世界中のさまざまな異変を解決し、いくつものやっかいな事件をくぐり抜けてきた。若く未熟だった魔法使いたちも知識や力を蓄えたし、年嵩の魔法使いたちも含めて、チームで動くことで互いの魔力をより引き出せるようになっていった。なにより、一年前には存在しなかった強い信頼や絆があり、その中心には賢者である晶がいる。
 魔法使いは、心で魔法を使う。今の魔法舎は非常に士気が高く、一丸となって厄災に対峙する気構えができていた。決戦の日を間近に控えた若者たちは意気軒昂で、今日の夕食時にも、決意に満ちた声がそこここのテーブルで上がっていたものだ。
 だが――。
 この世界を滅ぼさんとする不気味な陰謀。その黒幕には迫りきれぬままだ。幾度かの接触で相手の力を削り取りはしたが、異界の魔術師ノーヴァとの決着も、未だつけられてはいない。
 厄災の力を増す大がかりな儀式が今年も仕掛けられているだろうことは想像に難くなかった。知識と心得のある者が日夜兆候を探しているが、有力な手がかりは得られていない。オーエンやミスラ、ブラッドリーら、強大な力を持つ北の魔法使いたちも、警戒を強めている様子が見て取れた。
 叶うならば、ひとりの犠牲も出さずに切り抜けたい。だが、その可能性は低い――。何度会議を持っても、そう結論を出さざるを得なかった。
「無理だよね! 俺たちは強くなったけど、不確定要素が多すぎる。このままじゃ、どうしたって後手後手だ。それに、厄災の傷もある。心臓が燃えたらきみは動けない! 夜になれば双子は絵の中、オズは魔法が使えない。カインは敵の姿も見えず、オーエンは子供になっちゃうし、ブラッドはくしゃみで飛んでっちゃう。賢者様はひとりっきり、同時に全部をなんとかはできない」
「――ええ、仰るとおり、状況は非常に厳しい。ですから、もはやあなたひとりの変化でどうにかなる範囲を超えています。それに、賢者様も、魔法舎の魔法使いたちも、今のあなたと信頼を結んでいる。こんな直前に、傲慢で鼻持ちならない本来のあなたに戻ったとして、良い影響があるとは思えません」
「きみともあろうひとが、下手くそな詭弁だね、シャイロック!」
 ムルは弾みをつけて空中に飛び上がると、くるりと半回転した。逆さまになったまま、シャイロックの顔を覗き込む。薄暗がりの中で、ネオングリーンの瞳が猫のようにぴかぴかと輝いた。
 にんまりと笑うムルの指が、こめかみをトントンと叩く。
「俺は世界一の天才で、世界でもっとも厄災に近づいた魔法使い! 俺が知ってること、あのとき知ったことを、全部この頭の中に戻したら? 決戦まで日がない今、一番勝率の高い賭けはこれ!」
「ムル……」
「双子もオズもフィガロも、戻せって言わなかった? それとも、みんな俺が嫌いだから戻って欲しくない? きみたちって面白い! 世界の危機より、仲間の生き死により、好き嫌いが大事?」
「……いいえ。随分前に、議題に上がりました。ファウストが、あなたの魂の欠片を探すべきではないのかと仰って、そうしたらオズが、その必要はない、欠片は全て魔法舎に揃っていると。――仕方ありませんから、私が持っていますと申し上げました。ですけど、ムルに戻すことには賛成できないとも。あなた――欠片のムルは、必ずしも私たちに協力的ではありませんでしたし、あなたも、私が言わなければ、自分から飲もうとはしませんでしたから」
「ふうん。それじゃあ、今夜は俺にくれるってことだ!」
 くるくると宙で回転し、ムルは膝を抱えたまま、定位置のスツールに着地する。幼子のように小首を傾げると、切り揃えた髪がさらさらと揺れた。
 姿勢も仕草も、かつての気取り屋の彼とはまるで異なる。シャイロックが育て、慈しんだ、愛しい野良猫は、いっそ無邪気なほどの笑顔を浮かべてシャイロックを見上げた。
「さあ、マスター、グラスを用意して。とびきりのお気に入りを披露するチャンスだよ」
「……なぜです、ムル。あなた……、あなたこそ、仲間の生き死にに、然程の興味はないでしょう」
「そうかな、そうかも? そうじゃないかも? 俺が戻ろうとするのはみんなの生き死にを気にしてるからだって解釈は、きみの願望、それとも懺悔?」
「――――」
 形の良い眉をシャイロックは悲しげにひそめる。
「ムル、……」
「シャイロック」
 ゆったりと低く、囁くように、ムルは友の名を呼ぶ。シャイロックの肩が小さく跳ねた。耳に馴染んだその声音は、忘れ得ぬ彼のものに、あまりにもよく似ている。
 似ている――当たり前だ。それは、彼なのだから。
 幼子のような、動物のような、いとけないムルなんて、本当は、とうに……。
 シャイロックの視線を受け止めて、ムルは唇をつり上げた。
「どうぞ俺に見せて。きみが集めて、大事にしまい込んでいる、俺の欠片を」

 コトリ、コトリと音を立てながら、シャイロックは小瓶をカウンターに並べていく。以前に賢者に見せたときよりも数が増えたのは、魔法使いたちが任務で世界各地を訪れるようになったからだ。特に賢者は目ざとくて、幾度もムルの欠片を見つけては、シャイロックに託してくれた。それをずっとムルに与えず、貯め込んでいるシャイロックを、かのひとが責めたことはない。ただ、少しばかりの困惑を浮かべて笑うだけだった。晶だけではなく、魔法舎の誰もがそうだ。古くからの友人であり、魂が砕けた彼の世話をしてきたというだけで、シャイロックはムルに対する特権的な立場を許されている。そんな権利など、本当はありはしないのに。
 ほのかな灯りを反射してきらめくパープルサファイヤの欠片たちを、ムルは興味深げに眺めていた。色は違うけれど、その瞳のきらめきと、欠片たちのきらめきはよく似ている。ムルの愛する、美しく輝くものたち。
「これで全部?」
「……ええ」
「ずいぶんたくさん集めたね! 俺ってまだこんなにいたんだ。どうやって飲もうか。きみはそのまま俺の口に入れることが多かったけれど、カクテルと一緒に飲み干すのも悪くなさそう。それともワインのほうが合うかな。おすすめはある? シャイロック」
「私に答えられない質問を仰らないで、ムル」
「そう?」
「……っ、酷い男……。ムル、――ムル、厭です。厭だ。見たくない。これみんな差し上げますから、お持ちになって」
 声を荒げると、常ならぬ乱雑な動作で、シャイロックは並べた瓶をムルのほうへ押しやった。ガラスがぶつかり合って、ガチャガチャと耳障りな音を立てる。
「出て行って。好きになさればいい。これはあなたのものです。私のものだったことなんてなかった。行ってしまって。あなたがいなくなるところも、戻ってきたあなたも、戻ってこないあなたも、私に見せないで」
 カウンターに両手を突いて、シャイロックは深く項垂れた。幾度も強くかぶりを振るたび、顔まわりに垂らした黒髪が乱れて、表情を隠していく。
「酷いひと。どうして、今なんです。戻りたいなら、もっと早く仰ってくだされば。集めた端からねだってくだされば。あなたがそうしないから、知っていたくせに、何も言わないから、私――」
 恨みごとを言い募りながら、シャイロックはカウンターの内側にずるずると崩れ落ちた。カウンターに置いた片手でかろうじて身体を支え、もう片手で顔を覆ったまま、声を絞り出す。
「とっくにご存じなのでしょう。私は私の育てたあなたが可愛い。でもあなたがどんどんあのひとから遠くなっていくのが怖い。あなたがいなくなるのも、あのひとが戻ってこないのも厭。厭です。何もかもそのまま愛していたいのに、こんな欲を手放せない私自身が、いちばん、厭になる……」
「……シャイロック」
「入ってこないで!」
 金切り声を上げてムルを拒絶し、シャイロックは肩を大きく震わせた。
 この場所はシャイロックの聖域だ。西の国の店に比べれば[[rb:瞬 > またた]]きのような月日だけれど、シャイロックはずっとここに立って、訪れる魔法使いや賢者の話を聞いてきた。訪れるひとびとや、語られる言葉を愛おしみ、ふさわしい飲み物と返答を、励ましや理解や共感、祝福や友愛、慰めや癒しを笑顔で差し出してきた。シャイロックの長い長い半生で培った、誇りと美意識と自己愛を詰め込んだこの場所ですら、ムルはシャイロックを暴きたてて、立っていられなくしてしまう。
 なんて残酷な男だろう。
 あの夜も、今も。完全なムルも、不完全なムルも、ただムルだけが、シャイロックを踏みつけて、癒えぬ傷をつけるのだ。
 こらえきれない涙がぽたりぽたりと落ちて、床の色を変えていく。ああ、なんて、みっともない。左胸に両手を押し当て、シャイロックは床に蹲った。刻まれた黒百合の下で脈打つ心臓が、今この瞬間、燃えないことが憎らしい。
「……だって、きみ、……」
 ムルの声がした。
 あんなに言ったのに、まだそこにいる。知っている、そういう男だ。シャイロックの言うことなど、ちっとも聞き入れてくれやしない。
 涙に汚れた顔のまま、シャイロックは顔を歪ませて笑う。惨めで、滑稽で、笑うことしかできなかった。
 けれど――。
 続くムルの言葉に、シャイロックの顔からは表情が抜け落ちる。
「だって、シャイロック、きみ、……いなくなる気だろう」
「……ムル……?」
 きゅぽ、と、瓶の栓を抜く音がする。
「あと三日したら、俺の愛しい月が、この世界を壊しにやってくる。きみのその傷は、今度こそ、きみを殺してしまうかもしれないね。そしてきみは、たぶん、」
「ムル、」
「――きみはそれを望んでる。違う、シャイロック?」
 栓を抜く音。カラリと乾いた音は、角張ったちいさな固形物がぶつかり合ったときのものだ。繰り返されるそれらの音と、ムルの言葉、シャイロックの喉の立てる喘鳴が、今ここにある音の全てだった。
「哀れなシャイロック、魂に深手を負って、きっときみはそれでも勇敢に戦うだろう。そうして賢者様を、若い魔法使いたちを守り抜き、最後まで笑みを浮かべたまま、炎に灼かれて息絶える。美しく、気高き、西の魔王。月に恋して魂を砕いた愚かな友の行く末は、とうとう知らぬまま――。涙を誘う悲劇だね。そうじゃない?」
 叙事詩を諳んじる吟遊詩人めいた芝居がかった調子で、滔々とムルは語る。
 カウンターの内側にへたり込んだまま、シャイロックはじっとそれを聞いていた。もう、笑みすら浮かばない。
「……愚かなムル。やはりあなたは、私を理解してくださらない。それを願えるような私なら、もっと楽だった。あなたにこんな醜態など晒しません」
 掠れた声の憎まれ口に、ムルはくすりと笑う。
「強情だな。でも、そうだね。きみは願わない。きっと、そうなる運命だからって、受け入れて、笑って、行ってしまう。だけど、ねえ、シャイロック、……きみがいなくなるの、いやなんだ」
「……、ムル、あなた」
「いやだよ」
 駄々をこねる幼子のようなかたくなさで、ムルが同じ言葉を繰り返した。小さく息を飲んで、シャイロックは耳を澄ます。
 迷い子のように頼りない、初めて聞くムルの声だった。
「いやだ、シャイロック。俺はきみを理解していないって、きみは言ったけど……、きみだって、きみが思うほど、俺に詳しいわけじゃない」
 タン、と軽やかな音がした。空気がふわりと動いて、シャイロックの目の前に、ムルが軽々と舞い降りてくる。カウンターの内と外、シャイロックが強固に引いた線など知らぬ顔で押し入ってくるのは、傲慢で傍若無人な、唯一無二の魔法使い。月に焦がれながら、シャイロックの心臓を支配する、世紀の迷惑男。
 ムルの両手が、シャイロックの濡れた頬を優しくすくいあげた。
 ネオングリーンの瞳がシャイロックの泣き顔を映してきらめいている。
 ムルの愛するもの。きらきらと光るもの。その中に、シャイロックまでも絡め取ろうとするかのように。
「あのねシャイロック、シャイロックみたいなひとは、世界中にシャイロックしかいないんだ。本当だよ。探して、探して、探したけど、ほかには誰もいなかった。きみの言うとおり、俺は仲間の生き死にとか、世界の救済とかは、わりとどうでもいいけど……、きみがいない世界はつまらない」
「…………、ムル……」
「俺の愛しいひとが、きみを殺した瞬間、俺はなにを思うだろうね? 興味はあるけど、まだ解けないきみの謎が、それきり終わってしまうのはいやだ。……ねえ、」
 祈るように目を伏せて、ムルが額を寄せる。
「おねがい。俺を置いていかないで、シャイロック」
「……っ、ひどい、ひどい、ひと……!」
 美しい瞳からぽろぽろと涙をこぼしながら、シャイロックはムルを[[rb:詰 > なじ]]った。ずっと言いたくて、言いたくて、美意識と呼ぶ自己防衛に阻まれて、言えずにいた恨みごとだ。
「いつも……、いつも、置いていくのはあなた! あの月に魅入られて、思い焦がれて、連れて行かれたのは……!! 私、私が、どんなに……っ、今だって、そうやって、私を、」
「うん。ごめんね、シャイロック」
「知りません、ばか、最悪な男、憎らしいムル、しおらしくしたって、――」
「にゃあん」
「にゃあんじゃありません、ばか!」
 頬をぺろりと舐められ、叱りつけながら、シャイロックはとうとう笑い声をもらした。嗚咽の合間にくつくつと喉を震わせながら、止まらない涙を指で拭う。指に対抗するようにムルの舌が追いかけてきて、涙を舐めとろうとするものだから、もう、だめだった。
 じゃれつくムルに顔中舐めまわされたのは、いつぶりだろう。
 愛しい、可愛い、シャイロックだけのムル。
 お別れが来ることなんて、本当は、とっくに知っている。
 だって彼は野良猫だ。飼い猫になりはしないと、いつかの彼が言った通りに。いつかはいなくなると知っていて、それでも、手間と情をかけて慈しんできたのだ。
「≪インヴィーベル≫」
 掠れた声で呪文を唱えて、ムルがカウンターにあけた魂の欠片たちを手元に呼び寄せる。この愁嘆場もすっかり筒抜けだろうに、紫色の欠片たちは行儀良く欠片の姿をしたまま、シャイロックの手の中で冷たくきらめくばかりだった。
「……グラスが必要ですか?」
「ううん。きみの手で」
「そう……。では、――口を開けて、ムル」
 つまみあげたひとつめの欠片に視線を向けて、シャイロックがふっと口角を上げる。
「ムル。私を――」
「俺のことをどう思ってる?」
 シャイロックの言葉にかぶせて、問うたのはムルだった。いつかの問答を繰り返そうとしたシャイロックを咎めるように、奪って、投げ返す。
 涙にけぶる睫毛をぱちりと上下させて、シャイロックはムルを見つめた。ムルは気障たらしく片目をつむって、返答をねだる。
 血潮珊瑚の瞳をとろりと溶かして、シャイロックは甘やかに微笑んだ。
「――大好きですよ」
「俺もだよ!」
 嬉しそうに大きく笑った、その唇に、シャイロックの震える指先から、パープルサファイヤの欠片がひとつずつ押し込まれていく。
 バーカウンターの内側、床の上に座り込んで。月の光も仲間の声も届かない、秘密基地のような空間で、幼子の遊びのように、神聖な儀式のように、ふたりきりだ。
 喉をごくりと上下させるたびに、ムルは表情を変えた。驚いたように、喜ぶように、困惑するように、怒ったように、面白がるように。
 とうとう全ての欠片が彼の口の中に消えたとき、ムルは苦悶するようにまぶたを下ろした。
 一瞬のような永遠のような時間のあと、ゆるゆると再び開かれたネオングリーンの瞳の、怜悧で、知的で、心の奥底まで見透かす光を、シャイロックは目を逸らさずに見つめる。
 見間違うわけがない。
 ここにいるのは、彼だ。
「――シャイロック」
 懐かしい声音が名を呼んだ。
「最後のひとつは、きみが?」
「ええ――」
「返してくれるかい?」
 ムルの手が、愛おしむようにシャイロックの頬に触れ、喉を辿り、胸元を撫でて、愛撫のように腹をくすぐる。
 シャイロックは大輪の薔薇が花開くように、あでやかに笑った。
 いざり寄ると膝で立ち、ムルの頬を手挟んで、ゆっくりと覆い被さる。唇が重なる直前、
「≪インヴィーベル≫」
 呪文を唱えたシャイロックの身体が、鈍い光を帯びた。
 美しい友をうっとりと見つめながらくちづけを受けたムルが、やがてこくりと喉を鳴らした。シャイロックの身を包む光が収束し、がくりと力を失った肢体をムルは抱き留める。
 血の気の引いた白い頬に頬を寄せ、犬猫がじゃれつくような仕草で鼻先をこすり合わせたムルが、悪戯を仕掛けるようにシャイロックの唇をついばんだ。
 シャイロックは呆れたように笑うと、咎める仕草でムルのスミレ色の髪を一房引っ張る。
「もうありません」
「知ってる」
「まったく……浮気男は嫌われますよ」
「片想いでも浮気って言うかな?」
「振られ男になりたくていらっしゃるの」
「モテる求愛者を自慢に思って欲しいものだね」
「最悪な男……」
 くすくすと笑いながら、シャイロックがまた涙をこぼした。
「ムル、」
「うん」
「ムル、……、……ムル……」
 視線をさまよわせるシャイロックの表情が、喪失の痛みと、穏やかな失意に染まる。両手で顔を覆うと、シャイロックは静かにすすり泣き始めた。
 眉を下げてその様子を見守っていたムルがふと笑って、その頬に唇を寄せる。シャイロックの手を取り、目尻と鼻の頭をぺろりと舐めたムルに、シャイロックは愕然と両目を見開いた。
「っ、ムル……!?」
「にゃーん?」
 小首を傾げて、にこりと笑う。
 その表情を食い入るように見つめたシャイロックが、顔をくしゃくしゃに歪めた。勢いよくしがみついてきた長身を受け止めきれず、二人して床に倒れ込む。後頭部を思い切りぶつけたムルが、楽しげな笑い声を上げた。
「知らなかった。きみときたらとんだ泣き虫で、とびきり情熱的だ!」
 胸元で泣き咽ぶ友の黒髪を優しく撫でながら、ムル・ハートは声を弾ませる。
「さあ、シャイロック、初めましてと久しぶりを、皆に伝えに行こうじゃないか。
 俺たちは、賭けに勝たなくちゃ!」