ばらと秘めごと

「みなさん、旅立つ前に私に会いにいらっしゃるんです」
 めずらしく頬に酒精のほてりを灯したシャイロックが、どこか拗ねたような口ぶりで呟いた。
「旅立つ前?」
 琥珀色の酒を揺らしながらネロは相槌を打つ。
 西の国らしくいつも賑やかなベネットの店も、今はしんと静かだ。今日は神酒の歓楽街に不定期に立つ市があるとシャイロックに誘われて、二人で西の国にやって来ていた。珍しい食材を出す店があるからと、料理人の目利きを頼まれたのだ。西でも随一の歓楽街に立つ市である。見事な品揃えでネロも楽しかったし、シャイロックにも感謝の言葉を貰って気分が良かった。その帰り、慰労と味見を兼ねて、ベネットの酒場にシャイロックが誘ってくれたのだった。
 シャイロックが酒場を開けるのを心待ちにしている魔法使いたちは数多おり、店はすぐに満員になってしまう。その喧噪をネロが苦手にしているのを知っているから、今夜は店を開けないまま、ネロひとりをもてなしてくれているのだ。実に贅沢なことだが、シャイロックも店主の顔を半ば放棄し、カウンターから出てきて飲んだくれ始めたので、ネロの肩肘も軽くなった。おそらくはこれもまた、シャイロック流の気遣いの一端なのだろうが。
 話題は少し前にこの街で起きた事件のことに及んだ。シャイロックの古い友人であり、この店の客でもあった、海辺の景色を愛した魔法使いテューバルと、彼のマナ石の顛末をひととおり語り終え、大ぶりのワイングラスの中身を豪快に喉に注ぎ込んで、シャイロックは遠くを見るような目をして笑う。
「ええ。海底に沈んだあのひとのほかにも、花を怖れて、世界中の花を散らそうとしたひと。物語の虜になって、永遠の語り部になろうとしたひと。蝶に恋して、その身を蝶に変えたひともいました」
「相変わらず西の魔法使いはよくわかんねぇな……」
「西の中でもとびきりの変わり者たちですよ。かれらは皆、長い人生のどこかで、愛に身も心も捧げつくすと決意する。そうするともう未練はないけれど、自分がいたことを覚えて欲しくはあるのでしょうね。晴れ晴れとしたお顔で、お別れを言いにいらっしゃって――」
 ほう、とため息をつくと、悩ましげな手つきでシャイロックは自らの下腹のなだらかな隆起を辿る。
「私が魔女だったら、今頃子沢山で往生していたでしょうね。それはそれで、面白いかもしれませんが」
 ぶっ、とネロは口に含んだ酒を吹き出した。手慣れた様子のシャイロックが濡れ布巾を放ってくれる。カウンターをきれいに拭き、自分の手巾で口許を拭ってから、改めてネロはカウンターに突っ伏した。
「――そういう話!?」
「ええ。そういう話です」
「いきなりぶっ込むじゃん……」
「ふふ。大人の夜らしくていいでしょう?」
「刺激強すぎんだわ……先生がいなくてよかったよ」
「いらっしゃらないからお話しているんですよ。うぶな反応を見たい気もしますが、度が過ぎてバーにいらして下さらなくなると寂しいですし」
 大事な店を汚したことを咎める様子もなく、シャイロックは楽しげに話しながら、ネロのグラスをさりげなく新しいものに替えてくれる。
 丁寧すぎず雑すぎもしない、ネロ向きのフォローの仕方もさすがの年季だと、先程より少し苦い酒を舐めながらネロはしみじみ感じ入る。まあそもそも、酒を吹いたのは彼の爆弾発言が原因なのだけれど。
「こういう話題、ブラッドとかフィガロあたりのほうが喜ぶんじゃねえ?」
「お好きでしょうけど、あなたほど可愛い反応は下さらないのですもの」
 ころころと笑うシャイロックの表情は完全に年下をかわいがる大人のそれだ。
 ネロは東の国では最年長だが、シャイロックの半分も生きていない。この店すら、ネロが生まれるより前からここに在るのだという。太刀打ちなど出来ようはずもなかった。
「あんた良い性格してるよな……」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてないです」
「西の魔法使いにはとびきりの褒め言葉ですよ」
 嬉しげに相好を崩しながらシャイロックは手酌でグラスを満たした。手にした瓶は扱いには不似合いな上物だが、彼にそうやって飲まれるならワインも本望であるのだろう。
「口づけの花も、刻まれる傷も、注ぎ込まれるものだって、いずれすっかり消えてしまうのですけどね。私の記憶が積み重なっていくだけ。でも、残していくなら、それくらいがいいんでしょう」
 きわどい語彙も彼が口にすると歌劇の台詞めいている。シャイロックは長い脚を優雅に組み替えながら、煙管に唇をつけ、ほうと煙を吐き出した。動作のひとつひとつが目に毒で、東の子供たちがこの場にいたら思わず目を塞いでやっていただろう。
 ふわりと漂う煙の、花と果実の甘やかな香りは、シャイロックの纏う色香そのものだ。
 宵闇に咲き誇る、かぐわしい薔薇の樹のようだと思う。花のついた枝を切れば、ひとときその美しさを手にすることは叶う。けれど、彼そのものを得ることなど、誰にもできはしないだろう。
「どうか同情なさって。私はいつだって二番手なんです。酷いひとたち」
 言葉とは裏腹の、艶めいた流し目を寄越され、ネロは眉尻を下げて肩を竦めた。
「いや、なんとなくわかるよ。あんたを一番にしてるやつじゃ、あんたはなびきそうもないもん」
 シャイロックは無言で、口角をつり上げた。
 跪いて愛を請えば得られるような安い花ではない。彼の魅力を知ってなお、彼以外のなにかに一途な愛を捧げるからこそ、この男の気を惹く権利を得るのかもしれない。
 ネロは花盗人にはなれないが、想像することはできる。
 彼がこの地で艶やかに咲き続けるからこそ、許されてひととき手折った一輪の美しさを、その棘でつけた傷を、折った枝のなまなましい裂け目を、思い出のよすがにしたくなりもするものだろう。
 ふと好奇心がわいた。
「……いい夜、あった? 巧いやつとか」
「ええ、たくさん。でも、どの夜も素敵ですよ。めくるめく快楽を教えて下さる方も、初々しい一夜を捧げて下さる方も、私にとっては等しく愛おしい。もう一晩とどまっていらして、なんて甘えたくなることもあります。そこをこらえて送り出すのも、また、醍醐味ですね」
「うわ……あんたにお相手して欲しくなっちゃうの、わかるわ」
「ふふ。ネロもその気になったらぜひ挑んでらして」
 細い指がドライフルーツをつまみあげ、検分するように灯りにすかす。市で見つけた、めったに出回らない種類のものだ。北の山深い土地で、春先に真っ赤に熟れるが干すと深い紫になる。じっとりと甘い中にほのかな渋みがあり、北の強い酒とよく合う。
 連想が働いたのは、その手つきが、いつか見た光景に重なったからだろう。大切そうに拾い上げられた、パープルサファイアの魂の欠片。
 視線がちらりと、空っぽのカウチに流れる。猫のように寝そべる彼のためだけに探したという、優美な長椅子は、いまは主を忘れたようにぽつんと佇んでいる。
 シャイロックの長年の友であり、この酒場の常連客であり、月に近付きすぎて魂を砕いた世紀の智恵者――。
 彼もまたそうやって、この赤薔薇に別れを告げていったのだろうか。
 ムルの視線を目ざとく追ったシャイロックが、肩を小刻みに揺らした。
「それが、あなたの想像なさったようなことは、なにも」
「へ?」
「あのひとね、お別れも言っていかなかったんです」
「…………」
 指先で弄んでいたドライフルーツをシャイロックは口に放り込む。ほんとうだ、美味しい、と頬を緩めながら、ワイングラスを持ち上げた。三分の一ほどになった中身を揺らめかせ、くっと呷る。
 白い喉が上下するさますら、どこかなまめかしい。
「そう――私、あの人に、せめてお別れくらい言っていってくださいなって、なじりたかったのかもしれません」
 酔いのせいか――彼が酔ったところなどこれまで見たこともないが――いつもより舌足らずな言い方で呟くと、シャイロックはカウンターにしどけなく上体を伏せた。
 顔まわりに残した黒髪が頬にかかって、表情を半ば隠す。
「えっ、なに、甘えられてんのこれ」
「はいとお伝えしたら、慰めてくださる?」
「ええ……?」
 手の甲に指を這わされ、ネロは思わずキョロキョロと視線をさまよわせた。もちろんのこと、店内にはネロとシャイロックの二人以外誰もいない。どこでも構わず飛び込んでくる彼の猫も、今日はまったく気配がない。
 ネロは大きくため息をつくと、シャイロックに触れられた手をくるりと返して、ゆるく握ってやった。もう片手を伸ばして、黒髪をそっと撫でてやる。同じ黒でも、シノの短くごわついた髪と違って、つやつやとなめらかな髪だった。
「……よしよし」
 陰になった目元で、シャイロックの長い睫毛が、意外そうにぱちぱちと上下した。ネロは苦笑する。これまでの話の流れで、この子供扱いはないだろう。ないだろうと思うけれど、なんだか、そうしたかった。
 猫のように撫でられたまま、シャイロックは吐息だけで笑う。
「かわいいひと」
「あんたもこういうとこ、わりと」
「そう? ふふ……」
 微笑んだシャイロックが、満足げにまぶたを伏せる。
 重ねていた手をそっと抜き取って、ネロはグラスを取った。体温を分けあうようなふれあいは、東の魔法使いには近過ぎる。寄り添う距離は、髪の感触を知るくらいまでが、ちょうどいい。
 琥珀色のきつい酒がすっかり空になるまで、ネロはシャイロックがぽつぽつこぼす恨みごとに、静かに耳を傾けた。手入れのいい髪の撫で心地が気持ちよくて癖になりそうだなんて思ったのは、ネロひとりの秘め事だ。