記憶と彼の涙について

 はじめの頃の記憶はおぼろげだ。
 いまでは俺の記憶というものは、砕けた欠片のひとつひとつに刻まれていた記憶と、一度まっさらになってから書き込んだここ最近の記憶との、二通りが混在しているものだから、よりいっそうややこしいのだけれど。
 シャイロックによると、その頃の俺は言葉の通じない野生の獣のようであったらしい。躾をしつつ、魂の欠片を拾い集めては食わせ、そうするうちにどうにか人間の幼児程度にまで辿り着いた。それは新しい獲得なのか、ただ取り戻しただけなのか――当事者である俺にすら定かでないのだから、シャイロックにもまるでわからなかったろう。
 覚えている情景は、例えばこうだ。
 空の色が濃くなって、俺は立ち上がる。窓の外の光景が変わったら、愛しいものに会えるはずだからだ。愛しいだなんて語彙すら獲得していなかったけれどね。暗い空に白く美しく光る俺の厄災――胸の高鳴るその光景を見たかった。
 だがその日は新月だった。待てど暮らせど月は昇らず、しかしその理由を俺は知らなかったのだね。怒りを露わにした。なんと幼い思考だろう。我ながら汗顔の至りだけれども、嘘をつくわけにもいかない。なにしろその時俺はまさに幼子のようなものだったのだから。
 シャイロックが顔を見せたのはそんなときだ。いま思えば、それもおそらく当時の俺がわめくか暴れるかしたからなのだろうな。
 俺は彼に飛びかかったよ。彼を責め立てた。どうして夜になったのに愛しいあのひとは空にいないのかと――そんなようなことを言ったのだと思う。まだ言葉すらろくになかったから、ほとんどただの唸り声だったけれど。
 ムル、と彼は呼んだ。ムル、ムル――何度も。それが俺の名であることは、そのときの俺もかろうじて知っていた。甘いその声が好きだったよ。
 彼はなにごとかを俺に説明していた。その頃の俺には言葉という概念がないから、彼がなにを言ったのかはちっともわからなかったけれど。彼が根気よく、俺になにかをわからせようとしていたということは、覚えている。状況からして、新月の夜には月が出ないのだと、そういうことを伝えていたのだろうね。
 残念ながら、彼の努力はすっかり無駄だった。
 俺は衝動のまま、彼をひっかいたり、噛みついたり、蹴飛ばしたりした。とても怒っていたから。彼のきれいに結い上げた髪はすっかりぼさぼさになって、服のボタンが飛んで、ところどころ破けていたな。我ながら実に酷い所業だった。
 ムル、ムル、ムル――。何度も、何度も彼は俺を呼んだよ。呼びながら俺の嵐を受け止めた。彼のほうが少し上背があるし、俺の身体ときたら貧相なものだけれど、加減なく暴れる成人の男を押さえつけるなんて至難の業だ。それでも彼は諦めなかった。魔法を使いもしなかった。あちこちに傷を作って、無残な姿で、それでも俺の前から去らなかった。どうしてなんだろうな。いまでもわからない。魔法で縛り付けることも、暴れるまま放置しておくことも、彼にはできたのにね。
 当時の俺はそんな疑問を浮かべるはずもなく、暴れたいだけ暴れて、それから泣き出してしまった。悲しくてたまらなかったんだ。大好きなあの美しいひとに会えるとずっと心待ちにしていたのに、顔を見せてくれないのだもの。なにしろ何度も言うけれど、赤子同然だったからね。
 シャイロックはぼろぼろの姿のまま、泣いている俺を抱きしめてくれたよ。よしよしと頭を撫でて、身体を揺らしてね。
 ムル、ムル。
 俺が聞き取れた彼の言葉はそれだけだから、そればかり耳に残っている。愛おしげに甘く、悲しげに苦く、時折は呪うように低く。
 彼は俺を憎らしいムルと呼んだかもしれない。かわいそうなムルと呼びかけたかも。あるいは愛しいムルと? 記憶とは厄介なものだね。彼の唇から発された音は俺の耳に届いていたはずなのに、名前以外はすっかり曖昧なんだ。
 彼の腕の中で気が済むまで泣いて、それから寝入ったのかな。記憶は緩やかにぼやけて終わる。ただ、ひとつだけ覚えていることがあるよ。
 俺の顔にすり寄せた彼の頬が冷たく濡れていた。
 どうしてあのとき俺は彼の顔をちゃんと見ておかなかったのだろうな。とても残念だ。だって俺は彼が俺のために泣いてくれたところを見たことがないのさ。
 俺たちはたくさんの人を見送ってきたけれど、誰を悼むときも彼は穏やかだった。俺の発明した魔法科学が彼の故郷を取り返しのつかないほど破壊して、俺のことを散々に詰ったときも、彼はかんかんに怒ってはいたけれど泣きはしなかった。双子を仲違いさせてオズの城に謝罪に行ったときだって、許されて生還したときだって、彼の頬は真っ白に強ばっていたけれど、涙が流れることはなかった。
 俺の魂が砕けたときは――どうだろうね。泣いてくれたのかな。覚えていられたら良かったのだけど。俺の身につけていたものの記憶を読めば分かるかもしれないが、そんな気にはなれなくてね。そのうちその気になるかもしれないが。
 そのあと、失った魂を少しずつ取り戻して、あるいは彼の言うところの情操教育とやらを施されて、俺が記憶と言葉を獲得した頃からは、やっぱり彼は俺の前で泣いたりなんかしなくなってしまった。
 そう、だから、あのとき泣いていたかもしれない彼の顔を見ていなかったことが非常に心残りなんだ。千載一遇のチャンスだったのにね。彼のようなひとがどんな風に泣くのか興味があるんだ。あの血潮珊瑚の瞳が泣き濡れたらどれほどの美しさだろう。きっと一見の価値があるよ。そうは思わない?
 もしかしたら、俺がすっかり元に戻ったとき、彼は泣くかな。泣かないか。意地っ張りだもの。そもそも、そんな日が来るのかどうかも知らないけれどね。
 すっかり元に戻ったとして、元の俺でない俺の記憶、すなわちいまここにいる俺の記憶だね、それは一体どこに行くのだろう。そのまま保持しているとして、それは元の俺と言えると思う?
 そう考えると俺はもう永遠にかつての俺には戻らない可能性が高いかな。彼はどう考えているんだろうね。きっと結論が出ないんだろう、俺の魂の欠片をコレクションしたままのシャイロック。彼の葛藤が愛おしいよ。俺がこうなってからというもの、彼は昔よりたくさんの顔を俺に見せてくれるようになった。彼に言わせれば俺の変貌の方が酷いと言うだろうけれど。そりゃあ俺は魂を失ったのだもの。まるごとの魂を持ったままの彼の変化のほうが希少性が高いというものだよ。そうではない?
 さてなんの話をしていたんだったかな。そう、彼の涙の話さ。本当に惜しいことをした。仕方がないからあの頬の冷たさだけは忘れないように努めるつもりだ。記憶の引き出しはけして無限ではないのだけれどね。これは記憶に留めるに値するものだよ。
 我が友シャイロック、美しく愛しき俺の謎よ。きみが次に俺のために泣くのはいつだろう。願わくばきみがその顔を俺に見せてくれますように。きみの涙はきっときらきらと光るに違いないよ。
 俺はきらきらしたものが好きなのさ。