『なあなあ巻ちゃん! インターハイのあとのこと、考えてるか?』
昼休み、いつものように東堂が電話をかけてきて、開口一番に問うた。
五月もまだ半ばだというのに、ジリジリと太陽の照りつける暑い日だった。衣更えを待たずに半袖で登校した生徒も多く、巻島もそのひとりだ。残念ながら学内の売店ではアイスの扱いが始まっていない。せめて冷たい飲み物で涼を取ろうと自動販売機に向かおうとしていたら、ポケットの中で携帯が着信を告げたのだ。
教室にいるときでなくて良かったと内心で思う。このところ東堂の電話の頻度が以前にもまして増えていて、クラスメイトの視線が微妙に痛いのだ。他校に彼女がいるのかとからかわれたことも一度や二度では済まない。実際東堂の電話の連絡のまめさや細かいことへのこだわりは女子かと突っ込みたくなるレベルだが、断じて彼女ではない。もちろん彼氏でもない。ただの他校のライバルだ。巻島がそう言うたびに田所が「ただのライバルってなんだそりゃ」と笑うのだが、他に言いようがない。
「――インターハイのあとって、なんショ?」
応じるまでに少し間が空いたのは、ちょうど巻島も歩きながらそのことを考えていたからだ。
八月の頭にあるインターハイが終われば、渡英の準備も大詰めだ。前倒しで高校卒業資格を得るための課題をやっつけ、入学予定の大学から課せられるレポートを提出し、身の回りを整理しなくてはいけない。
『次の広峯山大会が終わったら、ウチも本格的にインターハイに向けた練習に入るからな。個人で大会に出るのは、しばらくお預けだ。俺達の勝負は七勝七敗でいまイーブンだろ。インターハイ前の広峯山が十五戦目、俺たちの決着をつけるのに相応しいよな! それからインターハイだ。うちの地元の開催だ、勿論負けんよ。――でな、そのあとだ。一応、ウチだと三年はインターハイで引退ってことになって、練習ノルマとかもなくなるんだが、ロードのシーズン自体は秋までだろう。シーズン終わりに部の追い出しファンライドつうのがあって、それまでは練習にも参加するやつが多いし、個人で大会に出たりもする』
「あァ……こっちもまぁ、そんなもんショ。追い出しは県内合同でやってんナ」
『だよな。そこでだ! これまでの俺たちの対決は関東近郊の大会ばかりだったが、ちょっと遠くまで足を伸ばしてみてはどうかと思うんだ。俺もインターハイが終わったら副部長はお役御免だからな、数日留守にしてもなにも問題ない。お盆のシーズンは実家を手伝わねばならないんだが、そのぶんバイト代も出るしな。近いところで八月末に東北か信州あたり、どうだ? 前乗りで温泉旅館に泊まって、レースのあと軽く観光して帰るとか、そういうのもいいな。巻ちゃん、温泉好きだろう? ロードを預かってくれる提携の旅館に泊まれるプランもあるんだぜ。いくつか良さそうな大会の目星を付けてあるんだ、ええとな――』
「東堂ォ」
いつもながらに、いつ息継ぎをしているのかというペースで滔々と喋る東堂の言葉を、巻島は思わず名を呼んで遮った。
遮ってから、はっと我に返る。
東堂の語る未来は魅力的だった。部活動としてのレースを走り終えても、東堂がバイクを降りる気がないことがわかったのも嬉しかった。
けれどそれはもう、叶わない未来だ。
決めたことだ、覆す気はない。だが楽しげな計画を声を弾ませて語る東堂に、どう答えてやればいい。
来春の卒業を待たず渡英し、九月からイギリスで大学に通いながら兄の仕事を手伝うということを、巻島はまだ二年以上をともに過ごしたチームメイトである金城や田所にすら告げていない。余計な雑音を入れて彼らの心を乱したくはなかった。高校の教師陣は当然知っているが、誰にも教えないでくれときつく口止めをしてある。
『……巻ちゃん?』
名を呼んだきり黙った巻島を、訝しげに東堂が呼び返してきた。必死に思考を回転させ、巻島は言い訳を捻り出す。
(広峯山のあとはインターハイに集中したいから、その先を考える余裕ねェって……そう言やいいか)
少なくとも、いまこの場をごまかすには充分だろう。実際、余裕がないのは事実だ。
「悪い東堂、」
捻り出した言い訳を口にしようと――
したはず、だった。
「オレ、ちょっと……イギリス行くわ……」
ぽろりと己の口からこぼれ落ちた言葉に、巻島は愕然と目を見開く。
(何、言ったっショ……オレは、いま、)
『イギリス? あ、もしや、ご家族で旅行の予定があるのか? 残念だがそれなら仕方あるまい、楽しんできてくれ! しかしさすがだな巻ちゃん、ヨーロッパか。俺は国内ですら家族旅行というのをあまりしたことがないから少し羨ましいぞ。そうか、夏休みは無理そうだな、では――』
幸い東堂は、巻島のイギリス行きを旅行だと解釈してくれたようだった。考えてみれば、最初からそう言えば良かったのだ。あとは彼の誤解をそのままに、曖昧に相槌を打てばいい。黙っていては聡い東堂のことだ、不審に思うに違いない。
(なぁ、言えよ裕介、「あぁ」って一言でいいじゃねェか、早くしないと――)
『巻ちゃん?』
ほら。
『……巻ちゃん。もしや、イギリスに行くというのは、…………旅行では、ないんだな? 違うか、巻ちゃん』
(くそ。なんでおめェ、そんな鋭いんだよ)
『巻ちゃん』
「……悪い…… 聞かなかったことにしてくんねぇか」
『巻ちゃん! それはならんよ、ここまで聞かされて、無理というものだ! 気になって仕方ないぞ!』
だよなァ、と巻島は携帯を耳から少し遠ざけながらため息をつく。これがもし逆の立場なら巻島だって、どういうことっショ東堂ォ、と問い詰めていただろう。思わせぶりなことだけ言って忘れろだなんて、不器用な恋の駆け引きでもあるまいに。
「いや……あのな。なんでかうっかり言っちまったけど、金城にも田所っちにも、まだなんも言ってねェんだよ」
『聞いたらすぐ忘れるから!』
「クハ、無理っショ。おめェ、記念日だなんだってすげえ細かいことまで、いちいち全部覚えてんじゃねーか」
『む……』
「中途半端なこと言っちまって悪かった。けど頼むから――」
『巻ちゃん、ちょっと待ってくれ巻ちゃん、巻ちゃん!』
東堂の声の響きが不安定に揺れた。連呼する声に息継ぎが混じり、バタバタと乱暴な足音が聞こえる。
『巻ちゃん巻ちゃん巻ちゃん! いま、会話が人に聞こえない場所に、移動した。――巻ちゃん』
息を整えた東堂が、いつもより低く、巻島を呼んだ。男のものとしては明るく高い響きの東堂の声がこんなふうに低くなるのは、彼が本気の顔をするときだ。
東堂がどんな顔をしているのか、見えるような気がした。いつも笑みをたたえている唇を引き結び、眦をきりりと吊り上げたそれは、山神という大仰な呼称にも納得してしまうほどの迫力がある。普段はチャラチャラとした態度で自慢話ばかりよく喋り、女子人気ばかり気にしているように見える東堂に、あれさえなければと言う者もいるが、巻島の見立てでは東堂はああだから人の輪の中にいられるのだ。真面目なばかりの東堂など、近寄り難くていけない。
そんな東堂がたまに見せる真摯な表情は、レアだからこそ、巻島の気に入りだ。ましてや自分と競うことでその顔になるのだと思えば、たまらなくゾクゾクする。
が――今日ばかりは、そんな顔をされたくはなかった。
そんな巻島の思いをよそに、東堂は重々しく告げる。
『山神の名にかけて誓おう。今日これから聞いたことは、おまえの許しがあるまで誰にも話さないと。話を聞き終えたら、すぐに忘れたことにする。おまえ自身に対しても、二度と蒸し返さない。信じてくれ、巻ちゃん』
はぁ、と巻島はため息をついた。
(オレの負けだなァ)
「わかった。マジで誰にも言うな、忘れられなくても忘れたふりしろよ。――あっちで大学行きながら兄貴の仕事を手伝うことになった。早く来いって前からうるさくてよ。あっちは大学が九月からだからな、前倒しで高校卒業して、夏休み中にイギリスに渡る」
『――――!!』
一言も発しなかった東堂の、悲鳴が聞こえたような気がした。実際に耳に届いたのは、静かに深く息を吸う音、ひとつきりだったけれど。
東堂の長い沈黙を、巻島は携帯を耳に当てたまま聴いた。巻ちゃん、などという渾名をつけ、巻島をライバルと呼ぶようになってから、東堂が巻島の前でこれほど長く黙り込むのは、もしかすると初めてのことかもしれなかった。
『…………そう……か……大学も、あちらで』
ようやく聞こえた東堂の声は、聞いたことのないほど弱々しいものだった。コイツもそんな声出すんだなぁ、と巻島は逃避じみた感想を抱く。そんな声を出させているのが自分だと思えば胸が痛く、そして彼には申し訳ないことだが、少しだけ嬉しかった。
「――あァ。だから、次の広峯山と、インターハイで、俺が日本で出るレースは最後だ」
『最後……、か』
ふーっと深く長く、息を吐く音が聞こえた。東堂があの音のしないダンシングを始めるまえの呼吸に、それはよく似ていた。
それから確認するようにゆっくりと問うてきた東堂の声音からは、もはや動揺の気配は伺えない。
『巻ちゃん。それは、……巻ちゃんの、やりたいこと、なんだな。イギリスの大学も、お兄さんの仕事を手伝うのも』
「おう。まァ卒業式前に行くことになるとは思ってなかったんだけどよ、思ったより早く入学許可も降りたしな、高校卒業扱いにもしてもらえそうってなると、来年九月までお預けっつうのも、なあ」
『もうひとつ、いいか。TIMEは……バイクは、持って行くのか、あちらに』
「当たり前っショ。こっちじゃまだまだマイナー競技だけどよ、ヨーロッパじゃサッカーの次に人気あんだぜ?」
『そうか。――そうだな。乗り続けるのだな。わかった。ならば、いい。どこにいても、なにをしていても、おまえがロードを続けるなら、山を登っているなら! おまえが俺のライバルの、巻島裕介だということは、変わらない』
巻島と東堂自身とに言い聞かせるように、力強く、東堂は言い切った。
「東堂……」
『教えてくれてありがとう、巻ちゃん。――さあ、この話題はしまいだ! 俺はたったいま全部忘れたぞ。あれぇ、俺たち、なんの話してたっけなぁ?』
「……クハ」
声のトーンをあげ、とぼけた台詞を吐く東堂に、巻島は口に馴染んだ笑いかたで応じる。
『ああ、思い出したぞ、月末の広峯山だな! コンディションには気をつけろよ、インターハイ前の俺たちの勝負の集大成だからな』
「……おぅ」
『暑いけど、アイスばっか食べすぎんなよ! 栄養はバランス良く摂れ、雨の日に練習して風邪ひいたりすんじゃねーぞ、腹出して寝んなよ、』
「だぁから、おめぇは俺のかーちゃんかっつーの」
『ワハハ! すまんね、だって、ベストコンディションでやりたいだろう』
明るくわらった東堂の言葉尻が、わずかに震えた。
巻島は携帯電話を握る手に力を込める。
電話に寄せていないほうの耳に、予鈴の鳴るひびきが届く。いつもならそれを理由に会話を切り上げるところだが、巻島はなにも言わず、東堂が気が済むまで彼の話に相槌を打ち続けた。
* * *
広峯山での決着は叶わなかった。雨の悪路で後輪がパンクしたバイクのペダルをそれでも限界まで踏み続けたのは、どうしてもこの大会で、東堂と山頂を競いたかったからだ。けれど前タイヤまでが激しいパンクに見舞われてはどうしようもない。
ぐらぐらと煮える胃の府を無視して、巻島はポーカーフェイスを装う。
「行け。優勝はおまえのモンだ」
ザアザアと激しく叩きつける雨のなか、巻島は手を広げて東堂を促した。ここでもたもたしていては、後方に置いてきた地元選手である武蔵川が、追いついてこないとも限らない。自分がリタイアするのなら、優勝するのは東堂だ。自分以外の誰にも、山頂で東堂の前を走らせたくはなかった。
巻島の言葉を聞きながらまなざしに理解を乗せた東堂が、振り切るようにバイクにまたがり地を蹴った。
「――この優勝はカウントしねェぞ!! いいか、次が勝負だ。夏のインターハイで、そん時が俺たちの決着のステージだ!」
振り返って叫ぶ東堂に、クハ、と巻島は笑う。
「了解だ」
それは初めての、――そしてきっと最後の、約束。