高級ホテルと言うからにはインターフォンも備え付きで、いきなりノックをしてくるような礼儀知らずの輩はけしからぬ相手と考えるのが道理にかなっているのだろうけれども。
その音を聞いた途端にまるで操られるみたいに体が動いて、ドアスコープを覗く手間すら惜しんでドアの鍵を開けた。
とたんに一陣の青い風が部屋の中に飛び込んでくる。
「イワン…………!」
つめたく冷えた両腕がイワンの身体に巻きつき、ぎゅうぎゅうと抱きしめた。
耳元で何度も名前を呼ばれて、イワンがようやく身体のコントロールを取り戻した。
「キース、さん……? え、……どうして……?」
遠くシュテルンビルトの自室にいるはずの恋人の登場に疑問符をいくつもまき散らすイワンに、キースは照れたようにふふと笑った。
「きみのメールを見てね……待ちきれなくなって、気が付いたらパトロールに出る代わりにここまで飛んできてしまった。でも、我に返るとなんだか恥ずかしくなってしまって。だって明日になれば会えるんだからね。だから、君に電話をして、それから帰ろうと思ったんだが」
君の可愛いおねだりを聞いたらもう会いに来ないではいられなかったよ、と続けられて、イワンの顔が真っ赤に染まる。
「お、……おねだり、なんて……」
「違うかい? きみは私に飛んできてほしくなかった?」
笑み含みに低く問われて、違う、なんて言えるわけがない。飛んできて。会いにきて。この世でたったひとり大空を自由に舞うヒーロー、僕のためだけにそのちからで夜空を駆けて。駄目だと戒める想いと同じ強さで、それを願うあさましい自分をイワンは知っている。
そうしてその願いどおりに、誰よりもストイックなヒーローは、厳しく己に課した日課すら振り捨てて、イワンのもとに飛んできてくれた。怖ろしいばかりの幸福感と罪悪感が同時に身のうちを駆け巡る。
「………………ごめんなさい……」
「なぜ謝るの。嬉しいんだよ」
うつむいたイワンの頭に頬をすりよせて、キースはほがらかに笑う。
「嬉しい。嬉しいんだとても。きみはいつも悲しいくらいに自分を押さえてしまうから。きみがほんの少しのわがままを言うたびに、私がどれだけ幸せになるかわかるかい? いつだって甘えていいんだ、私にはね、だって私はきみの恋人なんだから」
そうだろう? と甘い甘い笑顔で言って、キースはイワンの顔を両手で包みこんで持ち上げた。至近距離で見つめられて耐えられないように目を伏せるイワンの頬にキスを落とす。それから反対の頬に。鼻の頭に。額に、目尻に、こめかみに、まぶたに、キスの雨を降らされて、イワンは身悶えた。優しく触れていくだけの唇にもどかしさが募る。声にならない吐息を漏らす唇に、ようやくキースの唇が降りてきた。ふわりと重ね、すりあわせ、押しつけて、下唇と上唇を順にやさしく食まれて、その頃にはイワンの両手はすっかりキースの首に回っていた。
「……は、あ…………」
一呼吸おいて、滑り込んできたキースの舌がイワンのそれを優しくつつく。応えようとしたイワンが、次の瞬間なにかに気づいたように身体をこわばらせた。だめ、だめ――唇がいまだふれあっているせいで不明瞭な発音で告げながら、キースの首のうしろにあったはずの手が、厚い胸板をそっと押し戻す。
「だめです……そんなにしないで、僕、だめ、…………なっちゃう……」
「なぜ?」
省略された言葉を正しく補足して理解し、けれど恋人の主張に納得はできない様子で、キースは首をかしげる。
問うてきているのはそうなる理由、でなく、そうなってはいけない理由のほうだろう。
「だって…………持って、ないし、……シーツ、汚れちゃう、から」
「――あ、ああ……成程……」
クローゼットを見れば替えのシーツくらいはあるのだろうが、問題はそこではない。シングルで取っている部屋に人を連れ込むのはマナー違反だし、そうでなくても恥ずかしがりのイワンは、情事の跡を残したシーツが赤の他人に回収され、洗濯されるさまを思い浮かべるだけでもいたたまれなさに身が縮む。
「すまない、私も急に思い立ったから、用意がなくて」
「で、す、よね、だから、あの、来てくれてすごくすごく嬉しかったです、明日まで、その、がまんします、から、は……離れてください、おねがい」
切れ切れにそう言いながらもイワンの両手はキースの胸に押し当てられたままだ。
会いたくて会いたくて会いたくて、抱きしめられたくてたまらなかった人の腕の中にいるのに、自分から離れるなんてどうしてできるだろう。想うだけで反応しかけた身体は、いまやもう狂おしいほど彼を欲している。もっと、もっとと叫んで、胸の中の火はもはや業火となって燃え盛る。
イワンを押しとどめるのは、いまにも切れそうなかぼそい理性の糸だけだ。
震えるばかりで役にたたない手を、ぐすぐすと鼻を鳴らしながらイワンは叱咤する。動け、はやく動け僕の手、……でないと。
「ぁ……っ」
キースがふいにイワンの腰骨をやんわりと撫でた。それだけでビクリと喉を反らせて、切ない吐息を上げたイワンを、
「イワン」
空の王者はまるで断罪のように、深く響く声音で呼ぶ。
耳元に吹き込まれたその声だけで上がる熱を持て余して、イワンは身体をよじらせた。
「ん、あ……やぁっ……」
「いやだよ、イワン。ようやく会えたのに、私にきみが手放せるとでも?」
「だって……だってぇ……ううーっ…………」
とうとうぽろぽろと涙をこぼしはじめたイワンの髪をなだめるように撫でて、キースはとある提案を口にした。
