見切れ職人折紙サイクロことイワン・カレリンは、5日間に及ぶ出張仕事を無事終わらせて疲れ切った身体を、スプリングのほどよく効いたホテルのベッドのうえにぼふんと弾ませた。
「お……終わったあ…………」
気の抜け切った声を誰も聞く者のいない部屋に垂れ流す。自分にはもったいないと思わず思ってしまうほど高級な部屋を楽しむ余裕は今日もない。ぐんにゃりと弛緩した身体をごろりと転がして、仰向けに天井を仰ぐ。間接照明に柔らかく彩られたクリーム色の天井はしっとりと上品でうつくしいが、イワンが懐かしく思うのはもっと高い位置にある、洗いたてのような真っ白なそれだ。
イワンの恋人、キース・グッドマンの住む、高層マンションの最上階の部屋の、それ。
とことん日本風に改築した自分の家の木目模様を差し置いて真っ先に思い出す、そうさせるくらいにはイワンはキースの部屋で夜と朝を過ごすことが多い。今回の出張の前夜もそうだった。ほんの5日ですよ、うんそうだね、たったの5日だね、そう言い合ってそれでも会えない時間が悲しくて寂しくて、身体に刻み込むように何度も抱き合った。
ほんの5日前。あるいは、5日も、前。
「…………早く会いたいなぁ……」
明日の朝一番の飛行機でシュテルンビルトへ帰れる。あとほんの半日足らず、その時間が、永遠にも等しいように思えた。仕事に気を張っているあいだは大丈夫だった、でもすべて終えて、折紙サイクロンをようよう脱ぎ捨てたいま、キースと自分とを隔てる距離が恨めしくてたまらない。
太陽のようなあの笑顔に会いたい。たくましいあの腕に抱きしめられたい。お疲れ様、よく頑張ったねと髪をなでられ、顔中にキスを振らされて、それから唇を重ねて……
遠くても明日の夜には得られるだろうそのごほうびを、思い浮かべただけでイワンの身体がわれ知らずひくついた。
ああ、やばい、と警告音がどこか遠くで鳴る。
考えちゃだめだ、と思えば思うほど、少し前の夜の記憶とこれから来る夜の想像が、鮮明さを増してイワンの脳内を侵食していく。
ベッドサイドに転がしていた携帯電話が電子音を響かせたのは、そのときだった。
軽快に鳴るそのメロディは、発信者がいままさに思い浮かべていた人物であることを告げる。あまりのタイミングにぎゃぁともうわぁともつかない声をあげて携帯をひっつかんだイワンは、ぶるりと頭を振って思考をクリアにすると、何度か深呼吸をしてから通話ボタンを押した。
「は、はい……」
「イワンくん! いま大丈夫かい?」
流れてきたのはいつもどおりの、そしてちょっとだけ久しぶりの、ヒーロー然とした快活な声。
せめて電話くらいしたいよとしょんぼりする彼に、仕事が終わるまでは電話もメールもしませんキースさんもしないでくださいと、断固として宣言したのが5日前。(だってメールを読めば声が聞きたくなるし、声を聞いたら帰りたくてたまらなくなってしまうじゃないか!)約束通り連絡を控えてくれたキースに、仕事が無事終わったことをメールで知らせたのは2時間ほど前、打ち上げを兼ねた夕食会で手洗いに立ったタイミングだった。時計を確認すれば彼のパトロールがちょうど終わる頃合いで、メールを確認した彼が日課を終えるや否や電話してくれたことがわかった。
自然と嬉しさに頬が緩んでしまう。
「だいじょうぶ、です。さっき、部屋に戻ったところで……仕事、全部おわりました。明日の朝、帰れるそうです」
「そうか、それは良かった! お疲れさま! じゃあ明日には会えるんだね、嬉しいよ、そして嬉しい!」
「僕も……嬉しいです、とっても」
電話の向こうで弾む声が、イワンの心にぽっとあたたかな火をともした。
「待ち遠しいね」
「はい……」
「ほんとうに待ち遠しい……待ちきれないよ、イワン……」
キースの声が、ほんの少し低く、かすれた。
その響きに、イワンの喉が勝手にひゅうと鳴って、背筋に震えが走る。
さっき心にともされた火が揺らめいて、内側から自分を焦がしはじめたような気がした。
「ぼく、も」
とたんにうまく息が出来なくなって、それでも喉までせり上がる言葉をイワンは懸命に押し出す。
「僕も……明日、なんて、遠いです………」
「イワン……」
「キースさんっ……」
ぐすんと鼻をすすり、涙声を電波に乗せる。
「………………………………会いたいよぅ………………」
「っ……」
息をのむような気配があって、それから妙に事務的な声音になったキースが唐突にホテル名と部屋番号を問う。え、と戸惑うと同じ問いを繰り返されて、涙が混じったままの声で答えを告げると、なにかをふっ切ったような弾ける声が、
「少しだけ待っていてくれ!!」
携帯電話に耳を押し当てていたイワンの右の鼓膜を激しく震わせた1秒後、通話はぷつりと途絶えた。
「え? …………え?」
どれほどそうしていたやら。
恋人にいきなり電話を切られてしまったショックで茫然とベッドのうえで固まっていたイワンの耳に次に届いたのは、入口方面から聞こえてくる、焦ったような速さのノックの音だった。
