運命への反逆(オメガバース) - 3/5

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 箱根学園の部活紹介は入学式の一週間後に行われるが、強豪である自転車競技部の入部希望者は入学式の二日前、入寮式の翌日から練習参加を許されている。
 友人である糸川修作の取り持ちで、東堂は中学時代から自転車競技部とは接触があった。中三の冬には入部の意思を伝えてある。案内された集合時間に合わせ、愛車のリドレーを担いだ東堂は広い敷地の一角にある部室に向かっていた。咲き始めていた桜の花びらが、ちらほらと地面に落ちている。風情のあることだと東堂は微笑んで、
 そのとき、世界がぐるりと回った。
「――――!?」
 これはなんだ。
 これはなんだ!?
 全身の毛が逆立つような、すさまじく強烈な――
「あ、」
 担いだリドレーを倒さないよう降ろすのがやっとだった。足ががくがくと震えて、立っていることすら難しい。
 サイクルジャージの胸元をきつく握りしめ、東堂はハッハッと浅く息をついた。どっと噴き出した冷や汗が全身を濡らす。寒気がするのに全身が熱く、目の奥が濡れ、喉が干からびる。
 全身を襲う衝動を意思の力で押しとどめて、東堂はまなざしだけで横を見た。その距離、五メートルほどだろうか。東堂と同様に自転車を片手で支え、立ち尽くした人影が、ひとつ。長身、金色の頭、一年生であることを示す、校名の入らない私物のサイクルジャージ。
 ――福富寿一。近隣の強豪校、秦野第一中学のエースだった男だ。言葉をかわしたことはないが、顔も名前も知っている。あちらもおそらく、東堂のことを知っているだろう。チームメイトの新開隼人とともに箱根学園に入学する予定だとも聞いていた。アルファ性であるらしいという噂も耳にしていた。チームメイトとして福富と競い、彼と肩を並べることが当面の目標になるだろうと想像もしていた。
 だが――これは。
「おまえ――」
「言うな」
 なにごとか言いかけた福富を、ぴしゃりと東堂は遮った。
「おま、え、は、」
「言うなと言っている……!!」
 吐き捨て、精神力を総動員して東堂は顔を上げた。首から上だけを動かして、福富をまっすぐに見据える。
 愕然と東堂を見つめるその顔を視界に入れた瞬間に、キンと耳鳴りがした。身体が震えた。いますぐに、リドレーを投げ捨てて走り出したい。
 絶望と、歓喜と、――経験したことのない欲情とが身体中を巡る。
 この男が欲しい。
 この男が欲しい、欲しい、欲しい、欲しい――!!
 東堂の身体に流れる血が、オメガの血脈が沸騰して、気が狂いそうだ。
「おまえなんて要らない!」
 もはや隠しようもなく、東堂の声は悲鳴だった。
「つがいなど要らない! オメガの幸せなど知るか! 俺は――俺は、俺だ、レーサーの、クライマーの、東堂尽八だ! 俺は登るんだ、山頂を獲るんだ、それだけでいい、それしか要らない!!」
「――気が合うな」
 低く、福富が言った。
「俺もアルファの幸福など求めるつもりはない。ロードレーサーとして頂点を獲るためにこの学園に入学した。色恋にうつつを抜かすつもりなど、かけらもない」
 瞬きで涙の粒を長い睫毛から散らして、東堂は福富を見る。
 見返してくる福富のするどいまなざしの奥にある、暗い、暗い、よどんだ底なし沼のような影を、食い入るように見つめた。
「『運命のつがい』だと? 俺の人生にも、それは必要のないものだ。俺は、俺だ。福富寿一、父を越え、兄を越える、ロードレーサーだ。俺の運命は、俺が決める」
 チェレステのビアンキを支える右手と、体側に垂らされた左手、がっしりと逞しいレーサーらしいそれの、わずかな震えが、彼の動揺とそれを押しとどめる意思の強さを東堂に教えた。
 くらくらと目眩がする。
 あの手に触れたい、触れられたい、舐めしゃぶって、奥まで開かれて。
「……そうか」
 東堂は呟くと、微笑んだ。
 一体どんな顔になっているのか、福富がわずかに、息を呑むのがわかった。
「ああ、……そうだな、気が合うな。福富。福富寿一――」
 一歩、一歩。
 リドレーを引いて歩み寄る東堂を、福富は餌を前にした肉食獣のような顔で迎える。
 こぶしを伸ばした。
「東堂尽八だ。これから、宜しく頼む。チームメイトとして」
「――ああ」
 福富もまた、握りこぶしをあげる。
「こちらこそだ」
 ゴツリ、と。
 ふたつのこぶしがゆっくりとぶつかるまでは、まるで永遠のように長く、一瞬のように短かった。

 おまえを、決して、欲すまい。
 おまえを、決して、決して、愛すまい。

 同じ誓いを福富が胸に刻んだことが、東堂にはわかる。
 触れたこぶしは、火傷をしそうに熱かった。

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