世界で一番かわいいきみ - 2/4

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 洒落たラベルの貼られた小瓶を目の高さに持ち上げて眺めていたら、ノックの音がした。丁寧に三回、耳に馴染んだリズム。
 一織が作ってくれる夜のホットミルクは、いまも続いているオレたちの習慣だ。少し熱めのミルクをゆっくり飲みながら、いろんな話をする。過去や未来の仕事のこと、面白かった本や映画やテレビ番組のこと、誰かとのちょっとしたエピソード、一織の大学の話、オレの体調について――話題が尽きることはないし、ふと二人とも黙り込んで、ただ隣にいるだけのひとときも好きだ。個人の仕事が多くなるにつれて、この時間はいっそう大切なものになった。
「ブランデーですか?」
「うん、千さんにもらった。海外ロケのお土産だって」
「ああ。あなた洋酒好きですもんね、弱いわりに」
「ひとこと余計!」
 小瓶を一織が目ざとく見つけたので、オレはその来歴を披露する。お酒に弱いって一織には言われたくない、と口まででかかったけれど、どうにか飲み込んだ。売り言葉に買い言葉で一織が禁酒なんかしたら、オレが寂しくなっちゃう。
「千さんが現地で飲んでみて美味しかったやつだって。でもこのままじゃ強いよなぁ」
「そうですね。ブランデーでしたら洋菓子や紅茶に入れたり……ああ、ホットミルクに入れることもありますよ」
「あっ、それやってみたい! いい?」
「構いませんけど……そもそも、どうして私に許可を取るんです?」
「だってホットミルク作ってくれたの一織だろ。勝手に味変えたらイヤかなって」
「へえ、七瀬さんもそういう気遣いができるようになったんですね。まあ、少量ならいいんじゃないですか。あなた、明日の仕事は午後からでしょう。安眠効果があるとも聞きますし」
 相変わらず言うことにさらっとトゲがあるけど、いちいち気にしないくらいにはオレも慣れっこだ。さっそくうきうきと封を切って、ミルクのカップにひと垂らし。ふわりと漂う香りは夜の雰囲気を纏っている。
「いい香り!」
「ええ」
 カップに鼻を近寄せて頷く顔は思いのほか真剣だ。お菓子にも入れると言ってたから、実家のお店のことを考えているのかもしれない。
 いただきます、と唱えて、ブランデー入りホットミルクをちびりと舐めてみる。
 うわあ……!
 続けてひとくち、ふたくち。喉を通って胃の中へ、ミルクの温度以上の熱がともっていくみたいだ。
「すっごい美味しい!」
 勢い込んで一織に伝えたら、一織が唇をむずっと動かして、それを隠すようにこぶしを口元に当てた。一織の「かわいい」の仕草だ。
 自分に向けられる「かわいい」は否定するくせに、ひとつしか歳の違わないオレのことはずっと「かわいい」の対象にしているの、一織の感性の不思議なところだなと思う。
 オレとしては「かっこいい」って思ってもらうほうが嬉しいんだけど、でもかわいいものにときめいている一織を見るのは好きだ。そういう一織こそ、すごくかわいい。これはオレだけじゃなくて、一織を除くIDOLiSH7関係者全員の共通見解だ。一織のファンにも、そう思ってる子は絶対多いと思うんだよね。
 酔ってない一織には、なかなか伝わらないどころか、怒らせちゃうんだけど。
 オレの唇にも伝染したむずむずを、マグカップに押しつけてごまかす。一織はこほんと咳払いして、つんと澄ました表情を貼りつけた。
「良かったじゃないですか」
「うん。一織も飲んでみろよ!」
「私は結構です」
「ええー、飲まず嫌い良くないぞ。それに千さんに会ったときお礼と感想言いたいじゃん」
「あなたがいただいたものでしょう、あなたが言えばいいじゃないですか」
「食レポ下手ってけなすの一織じゃん!」
「けなしているのではなく、事実なんですけど」
 憎まれ口を叩きながらもため息をついて肩を落としたのは、折れてくれた証拠だ。気が変わらないうちにと押しつけたマグカップを一織はまじまじ見つめて、なにか意を決したような顔で口をつける。こくりと喉が上下するのを、つられたオレも固唾を呑むような気持ちで見守った。
「………………」
 カップをオレに返し、指先で唇に触れて、一織はぱちぱちと瞬きをした。
「な、な、美味しいだろ?」
 オレの問いかけに、ゆっくり頷く。オレはなんだか、すごく嬉しくなった。自分が美味しいと思ったものを、同じように美味しいと思って貰えるのは、とても幸せな気持ちになることだ。
「もっと飲む?」
「……そうですね……」
 ブランデーの瓶を取って、傾ける仕草をしてみせる。一織はその瓶を見て、自分のカップを見て、オレを見て、もう一周順繰りに視線を動かして、それから唇をへの字にきゅっと結んだ。つまりなにやら、ものすごく悩んでいる。
 そんなに悩ませてしまうような誘いだっただろうか。明日は一織も余裕のあるスケジュールだと思っていたけど、朝から予定でもあったっけ。
 一織を困らせたいわけじゃない。別に飲まなくたっていいよと喉まで出かかったところで、
「いただきます」
 きっぱりと一織が言って、オレの手からブランデーの瓶を受け取った。
「あ、……うん」
 拍子抜けしているオレの前で一織は瓶の蓋を開け、中身をほんの少しカップに注いで、こぼさないように優しく揺らして混ぜる。
 飲食物を扱う一織の手つきはいつも迷いがなくて丁寧だ。
「……七瀬さん?」
「え、なに?」
「なに、じゃないですよ。穴が空きそうなんですけど。あなたじゃないんですから、零したりしません」
「もー、いちいちうるさい」
「はいはい」
 ふんと鼻を鳴らしながら、一織は瓶をテーブルに戻す。
「えーと、乾杯?」
「……乾杯」
 本当に当てるとそれこそ零しかねないから、ちょっと持ち上げる仕草をお互いにした。あれこれ喋っているうちに少し冷めてしまったブランデーミルクは、でもやっぱり、自然と笑顔になる美味しさだ。
「美味しいねえ」
「そうですね」
 笑い合って、またひとくち飲んで、――それからおよそ十五分。
 ほわりと頬を桜色に染めた一織が、オレの左側にぴったりくっついて、幸せそうに笑っている。

 この状況を一切期待してなかった、とは言わない。けど、ちょっとご機嫌になったらいいな、くらいの淡い望みであって、ミルクに垂らした程度のブランデーで酔っ払い一織ができあがっちゃったのはさすがに予想外だ。たしかに昔オレも、洋酒入りのチョコに酔って寝ちゃったことがあるけれど。
 マグカップの中身が減るごとにだんだん一織の目がとろんとしてきて、相槌の数が減り、空っぽのカップをローテーブルに乗せた一織は緩慢な仕草でオレを見た。ななせさん、と小さく呼ばれて、オレの喉はごくんと鳴る。口の中は空っぽだったのに、お酒入りのミルクを飲み下したときよりも熱いような気がした。
 床についた手で体重を支え、一織がオレとの距離をずるりと詰めた。そういう無精も、いつもの一織とは違うものだ。フランネルのパジャマの生地越しに二の腕同士が触れあい、じんわりとした温かさが伝わってくる。
 膝を抱えて座った一織が、こちらを向いて満足げに笑う。顎先まで伸ばしたサイドの髪がさらさら揺れた。子供がえりの幼い表情と、つくりものめいたきれいな顔と、酒精を帯びて潤んだ目、ほんのり色づいた目元――アンバランスで、どこか危うくて、ゾクリと背筋が粟立った。
 一織って、こんな顔してたっけ。
「いおり、」
 たまらず名前を呼んで、でもその先に続ける言葉が思いつかない。
 黙り込んだオレの顔を、一織が不思議そうに覗き込んできた。青みがかった灰色の目の中に、オレの色が映っている。
「ななせさん?」
 たどたどしくオレに応えた唇に、指先で触れてみた。ふに、と柔らかな感触が伝わる。そうっと押すと唇は小さく開かれて、その奥に赤い粘膜が覗く。
 なんだかくらくらする。オレも酔ってしまったんだろうか。
「――――」
 通った鼻筋をなぞり、目のすぐ下の薄い皮膚を撫でて、指に絡む髪を耳にかけてやる。ふるりと一織が震えた。むき出しになった形のいい耳の、柔らかいい出っぱりをいじると、くすぐったがりの一織は身をくねらせ、喉の奥でおかしな音を立てる。
 でも、逃げない。
 怒りもしない。
 長い睫毛を戸惑うように瞬かせながら、一織はオレの不躾な指を受け入れている。
 いつの間にか口の中に溜まっていた唾液を、オレはごくりと飲み下す。やけに大きな音になった気がした。一織にも聞こえてしまっただろうか。
 酔っ払いの一織は、翌朝にはいつも全部を忘れてしまうけれど。
「……一織、」
 白い頬を手のひらで包む。一織は猫の子のような仕草で、オレの手に頬をすり寄せた。
 一織、と、何度目かに呼ぶ。
「……さわっていい?」
 もうとっくに触れてるのに、我ながら卑怯な問いかけだ。
 一織はまたふるりと睫毛を震わせ、小さくこくりと頷いた。
 心臓がうるさいくらいに高鳴る。
 オレは深呼吸をひとつすると、一織の身体のあちこちを手で確かめ始めた。ほっそりとした首は、ほのかに汗ばんで熱い。パジャマ越しの背中は骨の感触がした。オレの全部を預けられるくらい頼もしいのに、ときどきオレの全部で守ってやりたくもなる背中。
 かっちりしたジャケットのよく似合う肩はオレより少し広いけれど、厚みはさほどない。
 いまは小さく折り畳まれた、すらりと長い脚。膝頭はイメージよりしっかりしている気がした。あまり人前に出さない素足は、指がまっすぐで、小さな爪が行儀良く並んでいる。
 んん、と一織が漏らしたむずかるような声に、オレは我に返った。うっかり夢中になりすぎてしまったみたいだ。俯いた一織の白い肌は首筋まで真っ赤に染まり、ぎゅっと握った拳の下、パジャマに皺が寄っている。
「ご、ごめん」
 咄嗟に謝ったけれど、一織は首を横に振った。膝から離した片手でオレのパジャマの袖のはしっこをつまんで、そっと引っぱる。
 アルコールが抜けてきたんだろうか、さっきまでの脳がグラグラ煮え立つような興奮はどこかへ消えていた。それでも、こんないじらしい仕草で続きをねだられて、胸をキュンとときめかせずにいるなんて、到底無理だ。
 くすぐったがる場所はそろそろおしまいにすることにして、袖にかかったその手を取り、目の高さに持ち上げた。手入れの行き届いたつやつやの爪、ハンドクリームのしっとりとした感触。一織の常用するケア用品はほとんどが無香料で、自惚れでなければ、それはオレのためでもある。
 長い指を小指から一本ずつ、確かめるようになぞって、そうっと手の中に納めた。右手の中指に少し固くなっているところがあるのが、勉強家の一織らしい。いつだったか見せてくれた講義のノートは、内容こそちんぷんかんぷんだったけれど、几帳面に並ぶ角張った字が一織本人みたいで、思わずパシャリと撮った写真はいまもスマホの一織専用フォルダにしまわれている。一織はなにが面白いのかわからないと首を傾げていたっけ。
 喉を鳴らしながら爪を出し入れする猫みたいに、一織が指をゆるゆると曲げ伸ばす。オレも同じように五指の先をバラバラに動かして、一織の指とオレの指が空中でじゃれるように押し合いへし合いし始めた。
 なんだか楽しくて続けているうちに指は深く絡んでいった。たぐり寄せるように指の先に力を入れて、ぎゅっと握る。手の大きさはあまり変わらないと思っていたけれど、指が長い分、一織のほうが手のひらがひとまわり小さいのだと、そうしてみて気がついた。ぴったりくっついた手のひら、手相がまったく違うと見比べて笑ったのは何年前のことだろう。
 年単位で思い出を語れるくらいに一緒にいても、まだ知らない一織がいる。悔しいような、わくわくするような、不思議な気持ちだ。
「かわいいひと……」
 くふふ、とオレが笑ったからだろうか。とろりと緩んだ目でオレを見上げて、一織が陶然と呟いた。むぅと唇を尖らせたら、また「かわいい」と目が和む。まったくもう、かわいいのはどっちなんだよ。
 衝動的にえいやと距離を詰めて、広げた脚のあいだに一織を閉じ込めるみたいにする。体格がほとんど同じだから、抱き込むというより抱きつく構図になっちゃうけど。
 一織の肩に顎を乗せて、空いているほうの手でまるい頭を撫でる。
 はふ、と、安心したような息をついて、一織が少しだけオレに体重を預けてくれた。
「いおりー」
「はい」
「オレ、かわいい?」
「はい」
 即答だなぁ。
「一織もかわいいよ」
「…………」
「かわいい」
 繰り返して、また頭を撫でる。つないだままの手に、ぎゅうっと力がこもった。
 ゆるゆるほわほわの酔っ払い一織は、それでもやっぱり、オレから伝える「かわいい」をおずおずとしか受け取ってくれない。
 オレはたぶんそれが、少しさみしい。