世界で一番かわいいきみ - 4/4

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 仕事が遅くなって帰宅していないわけでも、明日の早朝からスケジュールが埋まっているわけでもない。学校の課題やテストがあるとも聞いてない。入浴もとっくに全員済ませてる。なのにいつもの時間になってもノックの音が聞こえない。隣の部屋を訪ねても返事がなくて、首を傾げながら階下に降りてみた。
 リビングに通じるドアをあけると、カウンターキッチンの奥に見慣れたパジャマ姿を見つけた。向き合うコンロの上には片手鍋。なぁんだ、いつもより遅いけど、ホットミルク作ってくれてたんだな――なんて思った一瞬後。
「一織!」
 駆け寄りながら声をかけると、一織はビクッと肩を跳ねさせた。
「おなべ! 吹いてる!」
 割り込むようにしてコンロのつまみに手を伸ばし、火を落とす。鍋の中では無残な様子のミルクがシュワシュワと音を立てていた。わー、どんだけ放置してたんだろ。
「……すみません……」
「もー、気をつけろよ! 焦げてないからいいけど、もったいないじゃん」
 一織が失敗するのも、オレがそれをフォローできるのも珍しい。つい調子に乗って小言を口にしたら、一織はきゅっと唇をむすんで目を伏せた。
「……すみません」
 謝罪の言葉だけ繰り返して、言い返しもせず俯く様子がやけに痛々しい。どうしたんだろう、こんな言い方をしたらすかさず憎まれ口で返してくるのが、いつもの一織なのに。
「一織、なにかあった? 疲れてる?」
「いえ。少し考え事をしていただけです」
 ちょっぴり残ったミルクをマグカップに移しながら、一織は首を横に振る。
「ならいいけど……。無理はするなよな。今日はもう寝る?」
「七瀬さんがそのほうがいいなら、そうしますが」
「オレはそもそも一織のこと待ってたし、全然いいよ。オレじゃなくて、一織の体調とか都合の話してるんだけど」
「…………」
 眉間に皺を寄せた一織が、行きます、と小さく言った。

 吹きこぼれたミルクをどっちが飲むかで一悶着あって――オレはオレ用にしていいよって言ったけど、一織が自分の失敗だからと主張して譲らず、結局一織が鍋を洗っているあいだにオレのマグにいれた牛乳をレンジで温めることになった――それぞれのカップを持ってオレの部屋に向かう。
「ところで、考えごとって?」
 さっそく尋ねたら、隣に座った一織が思いきり顔をしかめた。
「まだ続けるんですか。あなたに話すようなことではないです」
「だって気になるだろ。一織がボーッとしてるの、珍しいし」
「プライバシーの侵害ですよ。親しき仲にも礼儀ありというでしょう」
「ええー。オレが調子悪そうにしてたらすぐ口出してくるの、一織じゃん」
 文句を付けたら、さすがに自覚があるんだろう、一織がばつの悪そうな顔をした。
「私は別に、調子を悪くしては」
「一織のことだし仕事には響かせないんだろうけどさ、いつもしないミスしてたら気になるし、悩んでるんだったら力になりたいよ。なあ、オレってそんなに信頼できない?」
「そういうわけでは……。その、……」
 困ったように眉を下げて、一織は手の中のマグカップに視線を落とした。
 短い沈黙のあと、ひとつ息をつき、思い切ったように口を開く。
「――しばらく、寮でお酒を飲むのをやめようかと思っていて」
「えっ」
 まったく予想外のコースに飛んだ話題に、オレは思わず声を上げた。キッチンでへまをするほどの悩み事で、オレに気軽に話せないとなったら、三月のことか仕事のことか、もしかしたらオレか天にぃがらみかな――なんていう予想とは、完全に明後日の方向だ。
「酔って、……記憶をなくしてしまうのは、やはり、あまり愉快なものではないですし」
「そ、っか……」
 なんだろう。
 分からないけど、なんだかすごくショックだ。
 寮でみんなと飲むの、一織は本当はずっと嫌だったんだろうか。
 ブランデーミルクで酔っ払っちゃったこのあいだの夜も、起きたら嫌な気持ちだけ残ってたのかな。
「で、でもさ、うちのメンバーわりとみんなそんなもんだし」
「四葉さんと六弥さんは違うでしょう。……あなただって」
 恨めしげにオレを横目で睨んで、一織はマグカップをくいっと空けた。それこそまるでお酒みたいに、少し乱暴な仕草でテーブルに戻す。
「少し飲んだだけでへらへらし始めるくせに、あれだけアルコールを摂取しても音程を外しもしない。弱いんだか強いんだか……正直腹が立ちます」
「理不尽!」
「なんとでも」
「ちょっとくらい音外したっていいだろ、仕事じゃないんだし。一織楽しそうだったよ。楽しくなかった?」
「そういう話じゃないんですよ」
「だって――」
 言いかけて、違和感に気づく。早口にオレの言葉を否定した一織の声音、眉間に刻まれた皺、口元を隠すこぶしと、微妙に逸らされた視線。
 オレが酔ってても音程を外さない、って、いつの話だろう?
 一織の言葉と記憶がつながったとき、体温がざっと音を立てて下がったみたいな心地がした。
「一織」
 名を呼ぶと、一織はピクリと背を震わせた。なんですか、と返ってくる声が固い。
「……もしかして、覚えてる?」
「覚えてません」
 即座に打ち返すような答え方は、ほとんど白状してるようなものだ。
 オレは一織の前に膝をついて、俯いた顔を下から覗き込む。
「このまえの、イヤだった……?」
「なんの話ですか。だから覚えていないって言っているでしょう」
「みんなと飲むのじゃなくて、オレがだめ? 一織……」
 問いながら鼻の奥がツンと痛んだ。
 たぶん、そういうことだ。
 お酒で記憶を失うふりをしていた理由は、なんとなく予想がつく。でもそのせいで一織は、お酒の席でされたことを怒れなくなってしまった。
 あの夜は、一織があんまり可愛くて、そのくせ妙に色っぽく見えて、距離感がおかしくなった。オレも酔っていたけど、どうせなにをしても一織は忘れてしまうからと、そういう思考が頭の中にあったのは否定できない。
 後悔と罪悪感が鋭い槍みたいに胸を貫いて、呻き声が漏れた。
「ごめん」
 一織がぱっと顔を上げて、オレを見た。唇がなにか言いたげに開いて、けれど何の音も発さないまま引き結ばれる。
 思わず伸ばそうとした手は、中途半端に空中で止まった。
「ごめんな。イヤだったんだよな。もうしないから、許して、一織……」
「っ、――」
「……、え、」
 引っ込めようとしたはずの手は、一織につかまれていた。ちがう、と、掠れた声を一織が押し出す。
 オレを引き留めた手も、オレを追って前に乗り出した身体も、吐き出す息も、一織の全部が震えていた。その様子が人間に怯える小さないきものみたいに痛々しく見えて、抱きしめてしまいたいと衝動的に思った。
 一織はもう、忘れてくれはしないのに。
「ちがう、違うんです、七瀬さんじゃない、……わたしが、」
「いおり……?」
「……っ」
 一織は何度も何度も口を開いては言葉に詰まりながら、懸命にオレになにかを伝えようとしている。あんまり必死すぎて、待っているオレまで息が少し苦しい。
 違う――と、その言葉だけは一番最初に、オレにちゃんと届いている。きっとオレがオレ自身を責めていたからだ。いつだって一織はオレのことばかり気にして、自分の悲しいのも苦しいのもあとまわしに隠してしまう。
 ほのかな期待が胸の中で頭をもたげる。あんなに後悔したばかりなのに、現金すぎるだろうか。でも、違うって言ってくれたのは一織だ。
 あの夜にオレを動かした感情の中身を、オレはたぶん知ってる。
 いちばん近くにいたい。触れることを許されたい。でもそれだけじゃ嫌だった。オレは一織に望まれていたいんだ。『歌って』って願われたい。オレが必要だって言われたい。好きだって言われたい。傍にいたいって、触れたいって思ってほしい。
 ――オレがほしい、って。
 言ってよ、一織。
「……っ、」
 もどかしげに一織がまた首を振って、両手で引き寄せたオレの手の甲に、縋るような仕草で額を押しつける。熱が伝わって、火傷しそうだ。
 一織、一織、教えてよ、おまえの気持ちが知りたいよ。
 肌がじわりと濡れる感触がした。一織の長い睫毛がしっとりと水気を含んで、オレの肌をくすぐる。
「か、……か、わいく、ないから、わたし、」
 蚊の鳴くような声を、オレの手で表情を隠した一織が絞り出す。
「お酒で……っ、ばかみたいに、……こどもみたいに、なったら、みなさんが、……七瀬さんが、優しくて……」
「っ、いおり」
「わた、私じゃない、あんな私のほうが、みんな、いいんだって……。優しくされて嬉しいのに、目が覚めると悲しくて、苦しくて、……自分がどんどん嫌になって、なのにやめられなくて」
 オレの指を伝って、ぽたり、ぽたりと水滴が床に落ちていく。
「だって、私は、あんなふうにはできなくて、……できないんです、できない……っ!!」
 悲鳴みたいな声だった。
 頑なに顔を隠したまま、一織は首を横に振る。何度も、何度も、苦しげに、肩を奮わせながら、……泣きながら。
 胸が痛くてたまらない。
 素直でかわいい甘ったれの酔っ払い一織を、オレたちはどれだけかわいがったっけ。刺々しくない、意地も張らない、年齢よりもずっと幼い仕草や表情を喜んで、構い倒して、――そうすることで一織を、ずっと傷つけていた。起きたら忘れていると思っていたからなんて、なんの言い訳にもならない。
 できない、と一織が泣いている。
 とっくに知っていた。一織がかわいいものが大好きなこと、自分には似合わないと思って隠していること。『かわいい』に憧れていて、そう褒められると本心では嬉しいのに、信じ切れなくて、突っぱねてしまうこと。
 自分の素直な感情を伝えること。オレにはちっとも難しくないそれが、一織をひどく苦しめるのだと、知っている。知っていたのに。
 一織が大きく肩を上下させて、不規則に乱れる息を吐き出す。
「できないくせに……、にせものでもいいから欲しくて、……嘘を、つきました。自分から求めて、なのにそのたび勝手に傷ついて、なんて浅ましい……」
 はは、とひび割れた声で、一織が嗤う。そんなもの聞きたくないのに、オレは耳を塞ぐこともできない。
 ようやくゆっくりと上がった一織の顔も笑っていた。真っ赤な目をして、涙の跡を幾筋も頬に残したまま、無理矢理に口角だけ上げた歪んだ笑顔は――けれどオレと目を合わせた途端に、くしゃくしゃと崩れていく。
「っ、ごめんなさい……」
 悲痛な声が紡いだのは謝罪だった。
 どうして、一織が謝るんだろう。
「ごめんなさい、私の自業自得なんです、七瀬さんのせいじゃない……、……泣かないで……」
「え、……あれ」
 自分でも頬に触ってみて、オレは自分が泣いていることに気がついた。
 一織が世界の終わりみたいな顔をしてオレを見る。――また、オレが傷つけた。
(どうしよう)
 オレはぐいぐいと乱暴に頬を拭きながら、必死で言葉を探した。オレのほうこそごめんと言うのは簡単だけれど、それを言って楽になるのはオレだけで、一織はきっと余計に苦しむばかりだ。
 探して、探して、でも見つからない。オレはうまく動かない身体を叱咤して、距離を詰め、腕を広げ、一織の身体にそうっと回した。できることが、他にひとつも思いつかない。こうするのが正解かも分からない。一織をもっと傷つけてしまうだけかもしれない。不安と緊張で心臓がめちゃくちゃに暴れているのがわかる。それでもこうしたかった。
「っ、ぁ」
 腕の中で一織の身体が固く強ばっている。いつでも振りほどけるように腕の力を抜いて、だけどどうか逃げないでと願いながら、永遠みたいに長い数秒、オレはそのまま待った。
 少しずつ肩の力を抜いた一織が、おずおずとオレのパジャマの布地を握り込んだときの、泣きたいような叫びだしたいような気持ちを、どう言ったらいいだろう。
 ほんの少しだけ腕に力を入れて、一織の身体を引き寄せた。一織が小さくしゃくり上げるたび、震えが伝わってくる。駆け足の鼓動はオレのだろうか、それとも一織の?
「……ありがとな、一織」
 あんなに探していた言葉は、まるで自然に唇からこぼれ落ちた。
「オレのこと、傷つけたくないって思ってくれて……、ほんとは内緒にしてたかったこと、教えてくれて、ありがとう。たくさん勇気要ったよな。できないって言うのも、悲しかったって言うのも、一織には辛いんだって知ってる。だから、ありがと……」
「――っ、う、ぁ……ッ」
 一織が大きく身を震わせて、オレの胸元に顔を押しつける。
 少し乱れた黒髪を、ゆっくり撫でた。さらさらで少し細くて、頭のカーブに自然に沿う、柔らかな髪が気持ちいい。酔っ払って甘える一織のことも、何度もこうして撫でた。そうするたび、いつもの一織にもしてやりたいなって思っていた。
 どうせ忘れてしまうからと、言わずにいただけだ。
「謝ってほしいんじゃないって、知ってるけど、言わせて。ごめん。ごめんな。悲しかったよな……」
 オレの胸元で、一織はいやいやをするように首を振る。くぐもった嗚咽の合間に、必死に名前を呼ばれて、オレにできることと言ったらその身体をきつく抱きしめることだけだった。
「っせ、さ……、七瀬、さん、……ぁ、ななせさん……っ」
「うん、一織」
「……かなし、くて、でも、……ぅれし、かっ……、」
「っ、うん、うん……っ、ごめんな、いっぱい傷つけたけど……、でも、にせものじゃないよ、一織だからだよ」
 一織は何も言わず、オレのパジャマをぎゅっと握りしめた。きっと信じたくて信じ切れなくて、またひとりで戦っているんだろう。愛されることも、自分を好きでいることも、一織はへたくそだ。
 そうやって、受け取りきれなくて苦しそうにするから、一織に伝えられないままだった言葉が、オレにはたくさんある。
「一織は、一番下なのにしっかり者で、みんなのこともよく見てて、頭いいし、格好良くてさ……。すっごく頼りにしてる。でも、だから、ちょっとだけ悔しいんだよ。オレ年上なのに、なんにもしてあげられないんだもん。だから、……情けないけど、お酒飲んでちっちゃい子みたいになる一織を甘やかせるの、嬉しかったんだ。みんなもきっとそうだよ。いつものおまえのことだって、もっともっとかわいがりたいんだ。……でも、一織には難しいんだって、それも知ってるから」
「……ぅ、ごめ、なさ」
「もう、謝んないでよ……なぁ……」
 あやすように腕の中の身体を揺らして、まるい頭に頬をすり寄せる。
「ねぇ、一織、一織……、こっち向いて」
 甘えた声でねだると、一織は拒むようにオレの胸にいっそう強く顔を押し当てた。
「なぁ、顔見せてよ、見たい」
「嫌です……、ひどいかお……」
「オレも酷いから、お互いさま。見る?」
 おどけて言ったら、ふふっと笑う気配がした。ああ、嬉しいな、一織だ。
「……仕方のない人だな……」
 掠れた声でいつもの憎まれ口を呟きながら、一織がそうっと顔を上げる。ようやく、ようやく一織と目が合った。強く押しつけすぎて赤くなった額と鼻の頭がかわいい。止まらない涙をたたえてゆらゆら揺れる瞳は、まだどこか悲しげで、でも、ちゃんとオレのことを見ていた。
「一織、」
 涙で汚れた頬を両手で包んで、息がかかる距離まで顔を近づけた。しめった呼気がまじりあって、オレたちの周りだけ湿度が上がっていくみたいだ。
「……さわっていい?」
 あの夜と同じ問いかけを一度口にして、「ううん、」と否定する。
「違うや。……さわらせて、一織、おまえにさわりたい」
 一織は長いこと沈黙した。夜空みたいな瞳をゆらめかせ、幾度かまばたきをし、唇を震わせ、……きっとその胸のうちがわで、こわがりの一織が怯えて泣いている。
 怖いね、一織。オレも怖い。
 アルコールを言い訳にしないまま、おまえに近づくのは、なんて怖いんだろう。
 黙り込んでいた一織が、はっとしたように目を開いた。片手を持ち上げて、オレの手にやさしく添える。
 オレの手は情けないくらいに冷えて震えて、一織の体温が熱のかたまりみたいだ。
 長い睫毛を一度伏せてから、一織はオレを見上げ、――やわらかく笑ってくれた。
「……七瀬さん、」
「うん」
「さ、わって、ください……、私、」
 耳まで赤く染めて恥じらい、声は消え入りそうに小さく、でも確かに一織本人が、オレに願ってくれる言葉だ。
「ちゃんと、あなたに、触れられたい……」
「っ、一織」
 言葉を切ると同時に羞恥の限界が来たのか、下を向こうとする一織の顔をつかまえる。や、と反射的に出てくる拒否の声なんて、もう聞いてあげられるわけがない。
 目尻に滲んだ新たな涙を唇で拭い、頬に触れ、ひと呼吸だけあけて、唇に唇を重ねた。怯えて震える唇をあやすように、何度も触れては離れ、また触れるうち、あぁ、とあえかな声を一織が上げた。
 ぽろぽろと泣きながら、ななせさん、と一織が舌足らずな音で呼ぶ。
 アルコールの匂いのしない一織の、オレを忘れない――忘れるふりをもうしない一織の、熱い息がオレの頬をくすぐる。
 とろりととろけた瞳が、オレの赤を映す。
「かわいい、一織」
 オレの囁きに、一織は苦しげに頬を強ばらせ、それでも、続きをねだるように唇をかすかに開いてくれた。
 顔を傾けて、粘膜の内側をふれあわせるキスは、なんて気持ちが良いんだろう。
「七瀬さん、……ななせさん」
 息継ぎのあいまにオレを呼んだ一織の唇が、すき、と小さくあまく囁く。その直前、一織の唇が、声には出さずになにか単語を紡いだのも、オレには見えた。
 たぶん、『ごめんなさい』だ。
 言わずにいられなくて、でも声を飲み込んでくれた一織のことが、泣きたいくらいに愛おしい。
「すきだよ……、好き、一織が好き、大好き」
 ようやく伝えられた言葉で胸をいっぱいにしながら、オレは一織を抱きしめる。
 しっかり者で、恥ずかしがり屋で、甘えるのが苦手な、かわいいかわいい年下の、オレの大好きな一織は、おずおずとオレの腰に腕をまわして、優しく抱き返してくれた。