世界で一番かわいいきみ - 3/4

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 深夜、喉の渇きで目が覚めた。
 足音が響かないよう、スリッパは履かずに部屋を出てキッチンに向かった。冷蔵庫に常備してあるミネラルウォーターをコップに汲んで、一息に飲み干す。冷たい水が爽やかに渇きを癒し、私の気持ちだけがもやもやとしたまま浮上しない。
 ……また、やってしまった。
(かわいいよ)
 寝る前に聴いた甘い声が脳裏に蘇る。
 何度だって聴きたくてたまらない、けれど思い出すたびに後悔に苛まれる、彼の優しい囁き。
 二人きりだったせいだろうか、それとも私が先にすっかり酔ってしまったからだろうか。昨夜の七瀬さんは普段より幾分大人びた空気を纏っていた。年上とはとても思えない無邪気さが鳴りを潜めると、彼はあの九条天の双子の弟なのだと思い知る。
 あんな目をして、触っていいか、だなんて――彼も私も酔っていなければ絶対に言わないし、絶対に頷かない。
 存在を確かめるような手つきにぞわぞわと肌が騒いだ。くすぐったさと、それだけではない、こもるような熱。すぐにも逃げ出したいのに、もっと続けても欲しくて、じっと耐えるしかなかった。
 全部、全部覚えている。彼が私の手をいじりながらふとこぼした笑みに安心してしまったことも、私を抱き寄せた彼のあたたかな体温も。
 私が酒にひどく弱い体質なのは事実だ。アルコールが入ると気分がふわふわと高揚し、判断力がおそろしいほどに低下して、自分を律している箍が簡単に外れてしまう。外での飲酒なら緊張感や警戒心が歯止めになってくれるが、この寮内で、メンバーとだけ飲む日はどうにもだめだ。
 ――だというのにどうしたことか、私の優秀な記憶力だけは馬鹿になってくれない。
 酔って別人のようになった自分の言動も、周囲の反応も、私はいつも、なにひとつ忘れることはできないままだ。
 初めて酔って醜態を晒した日の翌朝、あまりの羞恥に血の気の引いた私は、部屋を訪ねてきた七瀬さんに対してとっさになにも覚えていないふりを貫いた。幸いと言っていいものか、手本なら身近にいくらでもある。ドラマの仕事で培った演技力も功を奏したようだった。七瀬さんも、その後顔を合わせた他のメンバーも、私が酒に酔うと記憶をなくすタイプだと未だに信じ込んだままだ。
 だから皆、私に酒を飲ませたがる。幼児のような私の言動を楽しみ、慈しみ、かわいいかわいいと、やさしい言葉や表情を惜しみなく、雨あられと降らせてくれる。私に遠慮することなく、気軽に触れてすらくれる。そうしても私が怒ったり傷ついたりしないと思っているからだ。それもこれも私の嘘が原因で、彼らになにひとつ悪気などない。
 自業自得だ、よくわかっている。いつもつんけんと背伸びし、年上を年上とも思わない態度ばかり取り、甘えることも甘やかすこともうまくできないのが私という人間だ。たまに兄さんが優しくしてくれても、照れて押し返すことしかできない。七瀬さんになど、怒ってばかりだ。そんな普段の私が、相手を喜ばせる言葉ひとつ満足に言えない私が、あんな言葉を、あんな表情を、与えて貰えるはずがない。
 かわいい、かわいいと彼らは繰り返す。その言葉はアルコールに飲まれた私を舞い上がらせ、アルコールが抜けた私をずたずたに裂いていく。
 頬を伝った熱い滴が、空のコップを持ったままの手の甲で小さく弾けた。
 じっと立ち尽くしたまま、涙が流れ落ちるのに任せた。擦ってはいけないのは当然として、早く泣き止もうと努力するのも私の場合は逆効果になるのだと、得たくもない経験値だけは豊富にある。なるべく心穏やかに、自然に止まるのを待つのが、結局は一番の早道だ。
 そう、わかっているのに、胸を満たす悲しみから気持ちを逸らすことは難しい。
 昨夜だって、私が断れば良かった話だ。けれど結局、誘惑に勝てなかった。素面のときはうまく伝えられない素直な気持ちを、酒の力を借りれば簡単に口にできる。好きだと伝えて、嬉しいと答えて、いつもより近い距離に寄り添うことだってできてしまう。私が酔っていて、翌朝には忘れてしまうと知っているから、七瀬さんも私をからかったりせず、おおらかに笑って受け止めてくれる。
 一夜明ければこうしてひどい後悔に沈むとわかっているのに、つかの間の幸福感に、私はいつも抗えない。
 蜂蜜のように甘ったるい響きで私を呼ぶ彼の声を、そっと触れてくれるあたたかな手を、望んでしまう。
 彼らが――あのひとが愛おしんでくれるのは、私の顔をした、どこにもいない幻だと、わかっているのに。
 知らなければ良かった。私には与えられないものだと最初から諦めていたなら、この胸の痛みだってなかった。
 知らなかったころの私に戻りたいと願いながら、私は蛇口から水を細く出してコップをゆすいだ。頬を伝う涙はまだ、しばらく止まる気配がない。