メテオ - 1/4

《和泉一織》

 薄暗がりの中から、まばゆいステージを見つめる。
 背中をそっと支える手の感触に気づいて、私は視線を横に流した。隣に立つ七瀬さんが、瞳にいたずらっぽい輝きを浮かべて、小さく笑う。励ましと、少しばかりのからかいの表情が七瀬さんらしかった。私も唇をほころばせ、それから、ことさらにつんと顎をあげて、澄まし顔からとびきりのウィンクを飛ばしてやる。心配ご無用、私を誰だと思っているんです? そんなメッセージを込めて。七瀬さんはふはっと息で笑って、私の背中でぽんと手を弾ませた。
 胸がふわりとあたたかくなる。
 あの幼く未熟だった日、私は彼に、こんな優しさを手渡せてはいなかった。ほろ苦い後悔も、私たちの歩んだ軌跡のひとつだけれど。
 笑みを引っ込めて前に向き直った横顔はもう、国民的アイドルのそれだ。年齢を重ねても変わらない愛くるしさと、成長とともに獲得した青年らしい色気が、絶妙なバランスで同居している。
 七瀬陸。私のスーパースター。
 彼の隣に立ち、彼を支えていくことが、今も昔も変わらない私の夢だ。
 ほどなくスタッフから合図があり、私は左右に頷きを送って、一歩目を踏み出す。同時に、聞き慣れた朗らかな声が私たちを呼び入れた。
「さあ、続いてのゲストは、五年ぶりにセンターを一織くんに交代したIDOLiSH7! この番組が初披露となります新曲は――」
 客席から拍手と、ほとんど悲鳴じみた歓声があがり、強い照明が私たちの姿を照らし出した。
 にこやかな笑みを浮かべて先頭を歩く私の視界に、仲間の背中はひとつも入らない。
 恐れはなかった。ただ、ほんの少しだけ寂しい。
 流れ星を待ちわびる、あのいっとう幸せな時間は、これからしばらくお預けなのだから。

 * * *

「うん、わかった。それでいいよ」
 センター交代の打診を、七瀬さんは拍子抜けするほどあっさりと受け入れた。数ヶ月前の夜、彼の私室でのことだ。
 晩冬から早春にかけての気候の不安定な時期、七瀬さんは体調を崩しやすい。もちろん七瀬さんのスケジュールは彼の体調を考慮して調整してはいるが、仕事量が右肩上がりに増え続けているこの数年は、ほとんど綱渡りのような状況になっていた。病院と寮を行ったり来たりの暮らしになり、メンバー全員で穴埋めに駆けずり回る羽目に陥ったのも、一度や二度のことではない。
 今年は特に状況が厳しく、夏には全国を巡るライブツアー、秋には海外公演が予定されている。IDOLiSH7のいっそうの飛躍のためにも、七瀬さんには万全の体調で挑んでほしい。そのためにも思い切った休養が必要だというのが、私とマネージャーの共通認識だった。
 仕事をどう調整するか、協議を重ねていたところに、私宛のドラマ主演のオファーが舞い込んだことが最終的な決定打となった。ありがたいことに原作者からの熱いご指名らしく、主題歌もIDOLiSH7または私のソロを希望という、渡りに船の展開に、紡さんと思わず顔を見合わせたものだ。
 ドラマのプロモーション期間、タイアップの名目で私が一時的にセンターに立つことで、グループ全体の露出は確保したまま、七瀬さんの仕事量を抑えることができる。ドラマの放映終了と夏のツアーを契機にすれば、センター復帰の道筋も自然だ。
 ――と、いう計画を、丁寧に順を追って伝える予定だったのだが……。
「待ってください、即答しないで。大事なことなんですから、最後までちゃんと聞いて判断して」
「聞くのは聞くけど」
 お気に入りのクッションを胸に抱え、小首を傾げる姿は、二十歳をとうに過ぎた男とは思えないほど愛らしい。
「でも、イエスだよ。だって、世界でいちばんオレをセンターにしときたがってるの、おまえだろ?」
「それはそうですけど」
 頷くと七瀬さんはなにが面白いのか、くすくすと笑った。
「うん。その一織の判断だろ? だから、いいよ。信じてるもん。オレのプロデューサーさん」
「…………」
「オレがセンター譲るの嫌だって駄々こねたり、昔みたいに落ち込んだ方がよかった?」
「そういうわけでは……」
「あはは、嘘だぁ。拗ねてるじゃん。ほら、おいで」
 手招かれるままに傍に寄る。むっつりと唇を引き結んだまま彼の肩に額をつけると、よしよしと髪を撫でられた。
 その手が優しくて、あたたかくて、無意識にこわばっていた身体がほっとゆるんでいく。
 こんなときばかり年上らしくて、ずるい人だ。
 髪を撫でる手がゆっくりと動きを止めて、私の頭を抑え込んだ。わずかな手の震えが伝わってくる。
「……そりゃあさ。悔しいよ。手放したいわけじゃない。オレの場所だもん」
 私に表情を見せないまま、唸るように低く呟かれた言葉に滲むのは、間違いなく彼の本音だった。
 私が七瀬さんにセンターでいて欲しがっているのと同じくらい――いや、それ以上の強さで、七瀬さんはセンターで歌うことに執着している。
 誰より私が、よく知っていることだ。それでも、あらためて示されて、自分でも驚くほどの安堵が胸に広がった。七瀬さんの言う通りだ。私は彼に、嫌だと言って欲しかった。もっと駄々をこねて欲しかった。いま、彼からその権利を奪おうとしているのは、私自身だというのに。どれほど拒まれようと、聞き入れない覚悟で来ているのに。ひどい矛盾だ。でも……。
「……私だって、……」
 彼の背に手を回して、やわらかなルームウェアの布地を、手の中に握り込んだ。七瀬さんが、小さく笑う気配がした。
 共犯者のように、二人きりの夜の部屋で、私たちは身を寄せ合う。
 彼の抱えるままならない事情に、恨みごとを言いたいわけじゃない。弱点も欠点もすべて含めて、彼が私にとって理想のセンターだ。その彼に、のっぴきならなくなるまで、ぎりぎりの無理を強いてきたのは私であり、それが彼の望みでもあるからなんて、言い訳にもなりはしない。選ぶべき道を選び続けて、ここまで来たことに後悔もない。
 しばらく黙ったまま、七瀬さんの呼吸の音に耳を傾けた。喘鳴は混じらない。けれど、ほんのわずかだけ、不自然な揺らぎがある。乱れそうになる息を、意識的に抑えているときのリズムだ。それが聞き分けられるくらいの長さを、彼の近くで過ごしてきた。
 掌を開いて、彼の背中をゆっくりと撫でた。
 一織、と、七瀬さんが呼ぶ。
「オレの大切な場所、しばらく預けるから、頼むな」
「……言われずとも。私を誰だと思ってるんです?」
「パーフェクトプロデューサーで、オレの相棒の、和泉一織さん」
「そうですよ。あなたの場所は私が守ります。だから安心して、万全になって戻ってきて」
「うん」
 私たちはようやく近くで顔を見合わせた。七瀬さんの目尻はほんのり赤らんでいて、たぶんそれは私も同じだろう。
 言葉を持たない動物のように、鼻をすりあわせて、そっと唇を重ねた。
 夜にかわすキスは、いまも、甘いミルクの味がする。

 * * *

 小鳥遊事務所の総力を挙げて練り上げた広報戦略の甲斐あって、数年ぶりのセンター交代は、おおむね順調な滑り出しとなった。ドラマの私の役柄に寄せて逢坂さんが書き下ろした新曲の評判も上々だ。
 新衣装はネイビーを基調にした。「今回は絶対! 一織さんのカラーにしましょうね!」と主張する紡さんの鼻息の荒さに、ちょっと笑ってしまったものだ。黒いジャケットに赤いタイをむすんだあのカラーリングは、いま振り返ると私の気負いが隠せていなくて少し面映ゆい。
 IDOLiSH7の名を世間に知らしめたかった当時とは、状況がまるで違っている。あのころ始めたばかりだった私たちの冠番組も、今やすっかりホームグラウンドだ。
「――と、いうわけで、今週から『キミと愛なNight!』も新ポジション! 久々の立ち位置の感想はどうよ一織」
「そうですね。もちろん緊張はあるんですけど、番組でトークを最初に振っていただくことが増えたので、七瀬さんの喋り出しをハラハラしながら見守らなくてもいいのは気が楽というか」
「一織ひどくない?」
「オゥ、リクのトーク、時々とてもスリリングです」
「なー」
「ナギ、環、他人事みたいな言い方してっけど、おまえらもたいがいだからな」
「ワタシの軽妙洒脱なトークになにか問題でも?」
「あ、そーいやさあ。いおりん、ドラマの主役と主題歌やるからセンターなんじゃんな。その法則だとヤマさんってどうなるん」
「しっ、環くん。それは言わないお約束だよ」
「タマの素朴な疑問よりソウの気遣いにお兄さん胸が痛いです……」
「いやいや、おっさんが主演はるたびにセンター交代してたらちょっと忙しすぎるだろ」
「二階堂さんでは雰囲気がアダルトすぎて脱落者が出ますよ。おもに七瀬さんとか」
「なにおう? オレだってできるもんアダルト」
「アダルトできる人がもんとか言ってんじゃありませんよ」
「お兄さんがアダルトの基準ならミツも脱落組じゃん」
「ほー、見せてやろうかアラサー男子の魅力」
「オゥ、ミツキ、ソーキュート。アメイジング!」
「兄さんはいくつになってもかわいいです」
「一織くんは大人っぽくて格好いいよね。ドラマの准教授姿も楽しみだな」
「はーい、そんなうちの格好良くてかわいい弟が主演の新ドラマは来週放送開始です! ぜひ見てくれよな!」
「出たミツの『うちの弟がかわいい進行』」
「力業の軌道修正ありがとうございます兄さん。みなさん、よろしくお願いします」
「一織のドラマ、みんな見てね~!」
 相変わらずの賑やかさでトークパートを駆け抜けて、観覧席に手を振る。絶え間ない笑い声に包まれた収録スタジオは終始リラックスした雰囲気で、てきぱきと働くスタッフの顔も明るかった。デビューしてまだ日が浅かった頃に呼ばれたRe:valeの番組で憧れた、気心の知れた安心感が、この現場にもある。センターが七瀬さんから私に代わった程度ではもう、私たちはびくともしないのだ。
 私たちが積み重ねてきた年月の成果が、頼もしく、誇らしい。その想いに偽りはないけれど――
 これは裏切りだろうか。
 どうしようもなく、寂しい。

 暗い客席に、七色の光が揺れている。
 セットに仕込まれたライトが曲調に合わせて色を変え、四方からのビームライトがぐるぐるとめまぐるしく動き、私たちのパフォーマンスを華やかに照らし出す。
 海の青、空の青。ラピスラズリ、アクアマリン、サファイア。きらびやかな青に彩られたステージの真ん中で、歌い、踊り、笑う。曲も振り付けも衣装もライティングも、私を頼もしく支えてくれる。全員の振り付けとフォーメーション、今日の演出プランは頭と身体に叩き込んできた。七瀬さんのような天性の歌唱力もカリスマも持たないけれど、ステージ全体を俯瞰で把握し、完成度を高めて織り上げるのは私の武器だ。
『愛されてるね、一織』
 本番前、ステージの裾から客席のペンライトの海を眺めた七瀬さんが、私の耳元でそう囁いて屈託なく笑った。
 彼の示唆した通り、青い色があきらかにいつもより目立っていた。私の名を呼ぶ声も、絶え間なく聞こえてくる。
 ステージの上の仲間たちは、私と目が合うたび、背を押すように笑いかけてくれた。
 客席では、青いリボンを髪に飾った女性が私を見上げ、いっぱいの涙をたたえて、幸せそうに笑うのが見えた。そんな姿が、客席のあちらこちらにあった。彼女らの手に握られたペンライトが、きらきらと青い輝きを放っている。
 ――『ずっと待ってた』。
 センター交代の公表後に目を通したSNSでの反響で、何度も見かけた言葉が、脳裏に浮かんだ。かつて私が七瀬さんから預かり、そして手放したこの場所に、いつかもう一度立つことを、信じて願い続けてくれていた人たち。
 視線が、感情が、声が、嵐の海のように押し寄せてくる。
 私は、あなたたちに、ふさわしい私だろうか。
 強いライトを浴びて、視界が白く染まった。落ちサビの数フレーズを、ひとりで歌い上げる。
 ひとときの静寂と、爆発するような歓声。
 ほんの一瞬、足が竦んだ。いつかのステージで七瀬さんが涙をこぼした理由が、今ならわかるような気がする。
 昂揚はある。幸福感も。このステージの上が私の居場所だと知っている。けれど絶え間なく降り注ぐ愛も願いも祈りも、私がひとりで抱えるには多すぎて、こぼれおちてしまう。せめて両手をいっぱいに広げようにも、元から抱えていたものを、私は手放せないままだ。
 流れ星を――。
 あなたたちのもとに降らせてあげたいと、願える私になれたらいいのに。

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