《七瀬陸》
最近どう、という問いを、天にぃはケーキセットのミルフィーユに慎重にフォークを入れながら、ぽんと投げてきた。
「見たところ調子は悪くなさそうだけど」
「おかげさまで、いつもよりのんびりできてるよ。発作も全然起きてない」
「そう。よかった。……ん、おいし」
きれいに切り取った一口分のミルフィーユを口に運んで、にっこりと笑う。深く被った帽子と伊達メガネのフレームに阻まれても、相変わらず天使みたいな笑顔だ。
「心配かけちゃった?」
「心配はずっとしてるし、そういう意味だと今はむしろ気が楽。キミの兄としてはね。アイドルとしてはまあ……、お手並み拝見ってとこかな」
「怖いなぁ」
「そっちでしょ。夏の大イベントに向けて仕事量セーブしますって素直にやれば可愛げがあるのに、派手な花火上げて話題さらってくんだから。姉鷺さんがすごい顔してたよ」
「可愛げ見せたら蹴り落とすくせにぃ」
「それはもちろん。この世界は甘くないんだよ、陸」
くつくつ笑いながら、天にぃは砂糖を入れたミルクティーをかき混ぜる。
「でも正直、予想以上かな。和泉一織のセンター、悪くないよ。下手にキミに寄せようとしないところがいい。テイストは全然違うのに、IDOLiSH7らしさを感じさせるのは不思議だよね」
何気なさを装ってるけど、天にぃのこれはかなりの高評価だ。にんまりと笑うのは、今度はオレの番だった。
「なあに、年下にポジション奪われたくせに、幸せそうな顔しちゃって」
「奪われてないよ! 預けてるだけ」
「呑気なんだから……。休養はいいけど、ちょっと腑抜けてるんじゃないの。ボクが彼の立場なら、期間限定で返却なんてしない」
手入れの行き届いたきれいな指が、伊達メガネを鼻先までずり下げる。フレーム越しじゃない天にぃの瞳が、オレを上目遣いにねめつけた。
「キミが誰より知ってるでしょう。一番やり甲斐があって、一番誇らしい場所だ。ボクは、楽や龍におびやかされないなんて慢心はしないよ。TRIGGERのセンターにふさわしいのはボクだと証明し続けるのはボクの絶対の義務。でなきゃ楽のファンにも龍のファンにも、何よりボクのファンにも申し訳が立たない」
「……天にぃ」
「アイドルとして真ん中で喝采を浴びて……、降ろされたキミも、そうやってふわふわ笑ってるなら。和泉一織にとっても、今の立ち位置の方が魅力的かもしれないよ。キミにはもう返したくなくなってるかも」
「それはないよ、天にぃ。オレと一織は、そういうんじゃない」
「どうして言い切れるの? キミが無茶やらかして倒れたときにあの子がどんな顔してたか知ってる? あの子……」
早口で言い募られるセリフに、オレはぱちぱちと瞬きをした。天にぃは我に返ったように口をつぐんで、照れ隠しのようにそっぽを向く。
「そっかあ。ずっと一織の心配してくれてたんだ、天にぃ」
「知らない。いまのなし」
多忙な天にぃが急な連絡をくれた動機が、すとんと腑に落ちた。たぶん天にぃは、オレにこのことを一番伝えたかったのだ。天にぃが一織を気に入ってるのも、オレはもうとっくに知ってるのに、素直じゃないなぁ。
そういえば前のときも、お互い遠慮してギクシャクしてたオレと一織を、天にぃが叱ってくれたんだっけ。
オレの感情と、一織の感情。IDOLiSH7のファンの感情。アイドルとしての義務と、オレたちの幸せ。オレの身体のこと。天にぃは厳しくて優しい人だから、全部考えてしまうんだろう。
「大丈夫だよ、天にぃ。一織のことは……まあ、たぶん、これからも泣かせるけど……」
「少しも大丈夫に聞こえないけど?」
「大丈夫なの! それでいいの、オレたちは!」
「…………」
じとりとオレを見つめた天にぃの手元で、スマートフォンが振動する。オレに目配せをして画面に目をやった天にぃが、呆れたようにため息をついた。
「なんなの、キミたちって。はいはい、馬に蹴られるからもうやめる」
ずいと突きつけられた画面にはラビチャの通知が表示されていた。送り主は一織だ。『あまり七瀬さんを苛めないでくださいね』だって。
今日の一織は朝から晩までドラマの撮影のはずだ。休憩時間に送ってきたんだろう。確かに、このくらいに時間に天にぃと会うことは伝えてあったけど。
もー、かわいいやつ。
「締まりのない顔しちゃって……」
オレの頬を指でつついて、天にぃはカップに残った紅茶を飲み干した。お皿にあったミルフィーユも、いつの間にかきれいに消えている。
「そろそろ時間だ、行くね。ドラマの最終回楽しみにしてるって伝えておいて」
「自分で伝えたらいいのに」
「やだよ。根掘り葉掘りアンケートしてくるもの、あの子」
席を立ってジャケットを羽織った天にぃが、一瞬だけTRIGGERの九条天のオーラを纏った。
「ボクの認めたライバルはIDOLiSH7のセンターの七瀬陸だ。万全のキミと競うのをボクも望んでる。――でも、無理はしないで。キミのためにも、あの子のためにもね」
「うん。ありがとう、天にぃ」
ひらひらと手を振り、帽子を目深に被ると、天にぃはテーブルの間を器用に抜けていく。伝票をスマートに持って行かれたのに気づいたのは、オレの分のケーキをすっかり平らげたあとのことだった。
* * *
テレビの画面に大写しになった一織が、白い手袋に包まれた手で顔まわりをするりとなぞり、誘うように指先をこちらに向ける。新曲を発表してすぐに大評判になった、環の会心の振り付けだ。
ドラマの世界観に寄せた切ないバラードの大サビを、一織の甘く優しい声が歌い上げる。二十代を迎えた一織は、非の打ち所のない美青年だ。役柄に合わせて少し短くした髪が、ターンに合わせてさらりと揺れる。
オレの贔屓目を抜いたって、そこにいるのは、きれいで、魅力的な、とびきりのアイドルだ。でも、どうしてだろう。画面の中の一織を見ていると、いますぐ駆け寄って抱きしめてやりたくなる。
キスをしたいとか、そういう、好きな子への欲みたいなのとも、ちょっと違う。
暗い宇宙に放り出された迷子みたいに見えるんだ。あんなに愛されて、あんなに完璧で、自信に満ちた顔をしているのに。一織の瞳だけがずっと、誰かを探して揺れている。
誰かを――。
ううん。
きっと自惚れじゃない。一織が探しているのはオレだ。隣で歌っているのに、一織と声を重ねてすらいるのに、それでも探して、求めて、泣いている。よくばりだね、一織。
一織がさまよう真っ暗な宇宙に、オレは流れ星を降らせてあげなくちゃ。
一織が帰宅したのは、二十三時を少しまわった頃だった。靴を脱いだら洗面所に直行するのは、オレたちみんなの約束事だ。帰宅してリビングの灯りがまだついていたら、よほどの事情がない限り顔を出すのも。
「ただいま帰りました……え、七瀬さん?」
「おかえり、一織」
一人でリビングを占領していたオレの姿に、一織はきゅっと顔をしかめた。小言を言いかけて、掛け時計の示す時刻と、オレのモコモコの部屋着と、膝を覆うブランケットと、足元のルームシューズを順に確認し、最後にホワイトボードに書かれた各自のスケジュールに目をやって、はあ、と肩を落とす。
少し前までは壮五さんと環とナギも一緒にいたけど、オレがリビングで一織の帰りを待ちたいと伝えたら、三人はにこにこしながらオレをモコモコにして去って行った。壮五さんと環は上の階の作曲スタジオ、ナギはたぶんシアタールームにいるんだろう。三月は泊まりがけのロケ、大和さんは早朝からの撮影に備えてすでに就寝中だ。そのあたりの状況をオレが言わずとも読み取ったらしい一織は、口元をむにむにと複雑に歪めながら立ち尽くした。
一織のまるくて賢い頭の中で、オレに一織を待たずに寝ていてほしかった一織と、オレが一織の帰りを待っていたことが嬉しい一織が、じたばた取っ組み合っているのがわかる。
一織が元気いっぱいの日は前者の一織がすぐに勝つんだけど、一織がお疲れだと、わりといい勝負になるのだ。今日はオフで明日も遅めというオレの予定も一織は知ってるから、なおさら。
ほんと、面倒でかわいいやつ。
冷えた身体ごとハグしてやりたいけど、外気に触れた服のままじゃ一織が気にするから、あと少しだけ我慢だ。
「ごはん現場で食べたろ? お風呂のあとで、オレの部屋おいでよ。ホットミルクいれたげる」
「…………レンジ使ってくださいね。ミルクあたためモードで」
「おなべのほうがよくない?」
「そう言って先週も吹きこぼしたのあなたでしょ」
「ちぇ。はぁーい」
「お願いしますね。それと、あの……七瀬さん」
「ん?」
「ええと……、その……、……待っていてくださって嬉しいです。ありがとうございます」
うわお、SSRデレ一織だ!
はにかむように頬を赤くして笑った一織にその場で飛びつかなかったことを、オレは褒めてもらっていいと思う。
「あり得ませんね」
マグカップを受け取りながら、一刀両断という言葉がふさわしい切れ味で、一織は天にぃの懸念を否定してみせた。
「だよねえ」
「TRIGGERが戦闘民族だからって、同じ価値観を求められても困るんですよ。IDOLiSH7に、あなたからセンターを奪いたいメンバーがいるもんですか」
少し熱くしすぎたミルクをちびりちびりと舐める一織の隣に腰を下ろして、オレは苦笑を浮かべる。
「まあ、天にぃの本音はもうひとつのほうなのかなとは思ったけど」
「そちらも大きなお世話です。最近ちょっと過保護すぎませんかあの人」
顔をしかめる表情が本気で嫌そうで、オレはちょっとだけ天にぃに同情した。昔の天にぃが一織にだいぶ意地悪だったのは本当だから、仕方ないんだけど。
「九条さんも難儀な人ですよね。あなたの兄なんだから、あなたの心配だけして、私を責めていればいいでしょうに。……正直、困ります。責める言葉になら肩肘を張れますが、優しくされると途方に暮れてしまう」
湯気を立てるミルクを見下ろして、一織は眉尻を下げる。
「まるで、このカップの中身みたいです。あなたがくれたものがなみなみ注がれて、私はそれで十分なのに。これ以上注がれても、持て余してしまう」
「一織」
「私は、あなたのようには……、…………」
いやいやをするように首を振り、一織は飲みかけのマグカップをローテーブルにおろした。冷めるまで少し待つつもりで置いていたオレの赤いマグの隣に、一織の青いマグが並ぶ。
一織はしばらくぼんやりとその光景を眺めていた。疲労が滲む横顔が、画面の中にいた一織の、迷子のような表情と重なる。
「本当に、あり得ない。そんなこと、私に望めるわけがないのに」
「一織?」
「……できると思ったんです。あなたのような天性はなくても、私は私のやり方で、IDOLiSH7を率いていけると。客観的には、こなせているのだろうとも思います。私たちの足は止まっていない。反響は上々です。おそらく、私が私に期待していた以上に。でも、……」
自分を抱きしめるように、一織は膝を抱えて小さくうずくまった。
「あそこは……、センターに立つことは、私には、怖いです。怖いのだと気づいてしまった。望む以上に愛されても、返してあげられるものがない。IDOLiSH7が愛されることも、『IDOLiSH7の和泉一織』が愛されることも、嬉しいと、誇らしいと確かに思えるのに、それが『私』自身に向かうものになると、途端に、怖くなる。逃げ出したくなってしまう……」
オレに横顔を見せたまま、一織は淡々と語り続ける。指先が小さく震えていた。
「ひどいでしょう。大切な場所をあなたから預かって、周囲からあれほど求めてもらっても、私はずっとあなたの声を探していた。IDOLiSH7の真ん中にいるのは、あなたじゃなきゃいやなんです。私じゃなく、あなたがセンターに立つIDOLiSH7を、みんなに愛してほしい。たとえそれが、あなたの命を削ることでも……、この願いの果てに、あなたをいつか失う日が来るのだとしても」
消え入りそうな声で呟いて、一織は苦しげに長い睫毛を伏せる。
「…………っ」
荒ぶる感情がわっと押し寄せて、オレはたまらず自分の胸元をぎゅっと握った。
「……あっの、さあ、一織ぃ」
食いしばった歯のあいだから、声を押し出す。だって、こんなの。
だってさあ。
「おまえ、いま、めちゃめちゃめちゃめちゃ熱烈な愛の告白してくれてるけど、自覚ある……?」
「は……、……え……?」
訝しそうに顔を上げた一織が、オレに視線を合わせて、きょとんと目を丸くした。
その顔が、みるみる赤く染まっていく。
言っておくけど、オレの顔なんかその前からとっくに真っ赤だ。
「もーダメ! 限界!」
衝動に任せて飛びかかる。腕の中に一織の頭を抱え込んで、もがく身体をわしわしと撫で回した。
「一織のばか。そんなの、ひとつもひどくない。それがオレは一番嬉しいって、どうしてわかってないんだよ。怖くていいよ、おまえが怖がったって、逃がしてやんない。だから安心して、怖がってろよ」
「っ、ななせさ、」
「いいよ。一織がぜんぶは受け止められないなら、オレのだけでいい。オレだけでいっぱいになってなよ、一織」
「……っ、だめ、でしょう。だって、」
くぐもる一織の声は、だんだんと涙混じりになっていく。この期に及んで抵抗する頑固さが愛おしかった。オレも鼻をすすりながら、一織の耳に唇を近づけて、小さい子にするように言い聞かせる。
「だめじゃないよ。世界中がだめって言ったって、オレが許すからだめじゃない。オレがだめにしない。天国も地獄も一緒に行くんだよ。おまえのこともみんなのことも全部オレが大事にして、愛してやれるよ。だからおまえはオレの隣に立って、オレに歌えって言って。一番近くで、オレの歌を聴いてて。おまえのアイドルのオレのこと、おまえが誰より一番愛してて」
「……七瀬さん……」
「一織だけだよ。みんなオレのこと大事にしてくれるけど、オレもみんなのこと大好きだけど、オレが元気でいることよりオレの歌いたいって願いを優先してくれるの、同じ強さで願ってくれるの、オレじゃなくちゃいやだって泣いてくれるの、一織だけだ」
一織、一織、ねえ。
わかってよ。
一織の白い両頬を手で包んで、顔を上げさせた。目のふちに滲む涙を親指で拭って、額をこつりと合わせる。
合わせた場所から、オレの想い全部、伝わってくれたらいいのに。
「――――」
一織の震える手が、オレの手首をこわごわと掴んだ。
そうやってオレをつかまえていてほしい。ずっと。最後まで。
「……わたしも、」
「うん」
ためらうように、一織の唇が幾度も開いては閉じ、あえかな声を押し出した。
「私も……誰にも誠実じゃなくても、ほかの誰にも許されなくても、あなたの隣がいい。七瀬さんの歌を、七瀬さんがいるIDOLiSH7を自慢していたい。……あなたは、私が見つけた、私のスーパースターだから」
「……うん」
誓いの儀式のように、一織の唇にキスを落とす。
夜空みたいな一織の瞳が、オレの色を映していた。苦しげに表情を歪めて、それでも、オレから目を逸らさない、そんな一織がいい。何度泣かせても、罪悪感に苦しんでも、いつか誰かに後ろ指を指されたとしても、この手を離したりしない。離してやるもんか。
前人未到の空を、おまえと一緒に飛んでいくんだ。
