我が愛しのベネット - 3/5

ひいばあちゃんの初恋泥棒

 シャイロックというひとの名前は、ひいばあちゃんから聞いて知っていた。
 ひいばあちゃんは、借金の膨れ上がったベネット一族が土地をみんな手放して離散し、あたしたちがお貴族様じゃなくなった、その最後の世代の人だった。ひいばあちゃんは機嫌の悪いときは昔の話をぐちぐちと繰り返し、なかなか面倒なのだけど、当時すでに借金まみれとはいえお貴族様の古いお屋敷での暮らしの話は町育ちのあたしには目新しくもあり、よく話し相手をつとめたものだ。父さん母さんからお駄賃も貰えたしね。晩年じゃすっかりぐちぐち婆さんだったけど、若い頃のひいばあちゃんは商才に恵まれ、人あしらいの巧い、色っぽい美人で、うちの店が軌道に乗ったのはひいばあちゃんの功績が大きいらしい。ひいばあちゃんの若い頃を描いた絵が残っていたけど(客の画家がくれたんだって。そういうエピソードがあるのがもうすごい)、確かにあだっぽい美人で、いかにも男にモテそうだった。あたしにもちょっとは遺伝したらよかったのにね。
 そんなひいばあちゃんが何かというと口にするのが、シャイロックという名前の魔法使いの話だった。丘の上のお屋敷にずっとずっと昔から住み着いていた、年を取らない魔法使い。
 なにそれ疫病神じゃないの、そんなのいたから没落したんだよ、だなんて言うと、ひいばあちゃんは目をつり上げて怒るのだった。あんたはシャイロックおにいさまを知らないから! って。だって実際知らないし。
 どうやらひいばあちゃんにとって、その「シャイロックおにいさま」は初恋の人だったらしい。誰もがのぼせ上がるようなとびきりの美青年で、優しくて、ちょっと意地が悪くて、まわりに煙たがられてたところが好みドンピシャだったみたいだ。当時のひいばあちゃんって十歳やそこらのはずだけど、将来の女傑はお目が高いというかなんというか。
 さてそんなひいばあちゃんはあたしが成人する前に亡くなり、あたしは店の出入りの職人となかなか運命的な恋に落ちて、結婚することになった。話がすっ飛んでごめんね、でも別にのろけ話をしようってんじゃないのよ。旦那の工房の親方がいい人で、結婚休暇をくれたので、あたしたちはちょっとした旅行に出かけることにした。神酒の歓楽街に行きたいと言ったのはあたしだ。ひいばあちゃんの代まではあたしたちの一族のものだったらしい土地は、今では上流階級のためのお高い保養地として知られている。街中に宿を取るには予算が足りないけど、近隣に泊まって日帰りで覗いてみるくらいなら、浮かれた旅行にはちょうどいいだろうし、自分のルーツを辿るのも面白いなと思ったのだ。そんな話をすると旦那はたいそう驚いて、きみってお嬢様だったの!? 跪いて求婚した方が良かったかな!? なんて素っ頓狂なことを言うのだから笑ってしまった。そしてせっかくだから跪いてもらった。なかなかいい気分ではあったわ。
 神酒の歓楽街は、想像以上に綺麗な街だった。金持ちが多いからか、治安も良くて、西の国にしてはおっとりした雰囲気がある。そのぶん、食事も雑貨もいちいちお高くて、あたしら庶民が暮らすようなところじゃなかったけど。
 あたしたちはとびきりのおめかしをして、おのぼりさんよろしくぶらぶらと目抜き通りを冷やかした。陽が落ちて、店頭のランプに灯りがともされ始め、食事のできる店を探すか、馬車を拾って宿に戻ろうかと相談していたところで、ふと、道を挟んだ向かいの店に、あたしの目は吸い寄せられた。
『ベネットの酒場』。
 飴色の扉に、気取った書体でそう記されていた。
 これはもう運命なのよと主張するあたしに旦那が折れて、あたしたちはその扉をくぐった。よく磨かれた真鍮の取っ手はするりとなめらかに動いてあたしたちを迎えてくれた。外観から想像はついていたけれど、店はさほど広くはなく、テーブル席がいくつかと、奥にバーカウンターがあり、背の高いスツールが並んでいた。まだこういう店にとっては早い時間なんだろう、客の姿はまったくなかった。
 勢い込んで入ってみたはいいけれど、いかにも大人の社交場という雰囲気は、結婚したばかりの小娘と若造であるあたしたちには背伸びがすぎて、格好悪いことに入り口でまごついてしまった。そうするとすぐに、カウンターの内側にいた人が――店の規模から察するにこの店は彼一人で切り盛りしているらしかった――グラスを拭く手を止めてこちらに顔を向け、にこりと微笑んでくれた。
「こんばんは。初めましてのお客様ですね。よろしければ、どうぞ、こちらへ」
 その顔の綺麗なことと言ったら!
 一瞬女の人かと思い、声を聞いて男性だとわかった。どちらにせよ、物凄い美人だった。長い睫毛が陰を落とす切れ長の目元が、とんでもなく色っぽい。しなやかな白い手に、彼の正面のカウンター席を示されて、あたしたちはもじもじしながらも、導かれるようにそこに腰を下ろした。
「お若い方、こういった酒場は初めてですか? そう緊張なさらないで。この時間はお客様があまりいらっしゃらなくて、少し寂しいんです。軽いお食事もお出しできますし、よければ暇な店主のお喋りにお付き合いくださいな」
 ゆったりと喋る声は蕩けるように甘くて、それだけでお酒みたいだった。抑えた照明の下で、紅い瞳が宝石みたいにきらきら光っている。
 あたしはその人の顔に、まじまじと見入った。神酒の歓楽街、ベネットの店、黒髪に紅い目の、とびきり色っぽい美青年――。ひいばあちゃんから繰り返し聞かされた昔話が鮮やかに蘇るのも当然だ。
「『シャイロックおにいさま』……」
 思わず口にしてしまったフレーズに、店主はぱちりと瞬きをすると、
「おや、懐かしい呼び方ですね」
 目を細めて、ゆったり微笑んだ。

 ベネット家の魔法使い、シャイロックは、一族が離散したあとに酒場を開いて、それからずっとそこに暮らしていたのだそうだ。領主一族じゃなくなっちゃったけど、この土地の風景が気に入っているから、離れたくなかったんだって。時々あたしみたいに、ベネット家の末裔が訪ねてくることもあるらしい。
 シャイロックはひいばあちゃんのことを「小さなヴァネッサ」と呼んで、いくつかのエピソードを話してくれた。あたしの記憶のひいばあちゃんはしわくちゃで怒りっぽい年寄りだったけど、シャイロックが語るひいばあちゃんは、勝ち気でこまっしゃくれた可愛い女の子だった。腕いっぱいに花を抱えてシャイロックにプロポーズをしたこともあるらしい。シャイロックおにいさまは年を取らない魔法使いだから、私が釣り合う年になるまで待っていてくださるでしょ、だなんて、なかなかの口説き文句だ。
 土地を手放すことが決まって、離ればなれになるときは、顔中ぐしゃぐしゃにして泣きわめいたんだとか。その話をするシャイロックはひたすら微笑ましそうで、ひいばあちゃんの激しい恋はちっとも相手にされていなかった。ちょっと気の毒だけど、生きる時間が違うというのは、そういうものなんだろう。
 あたしもひいばあちゃんの話をした。それから、あたしの話も。シャイロックはとんでもなく聞き上手で、旦那からもあたしの知らないような話を引き出していた。なにそれあたし聞いてないんですけどって思わず言ったら、シャイロックはいたずらっぽく笑いながら、相手の秘密を少しずつ紐解いていくのを楽しむのが長続きの秘訣ですよと教えてくれた。いまでもあたしの座右の銘である。
 あたしたちが新婚ほやほやで、記念旅行の最中だと伝えると、シャイロックは「それはお祝いしなくては」と店の奥に引っ込み、古めかしいワイン瓶を出してきてくれた。見せてくれたラベルには古い書体でベネットと記されていた。一族がまだこの土地でワイン造りをしていた頃の、出来のいい年の瓶を何本かずつ、保存の魔法を掛けてとっておいてあるんだそうだ。そんな特別なものをと恐縮したけれど、今日がその特別な日ですよとシャイロックは栓を抜いて、あたし達のグラスに注いでくれた。彼が教えてくれた古い言葉で乾杯をして、そっと口を付けたそのワインが、あたしの人生でいちばん美味しかったお酒の味だ。
 魔法使いってのはもっと気まぐれで、あまのじゃくで、家族とか親戚とかを大事にするような印象はなかった。っていうか人間のことをあんまり好きじゃないと思ってた。あたしには魔法使いの知り合いはいないから、人づてに聞いたことしか知らないけど、その日まであたしはそう思い込んでいたのだった。だって話に聞く魔法使いときたら、人をびっくりさせたり、騙したり、拐かしたり、からかったり、そんな話ばっかりだ。
 芸術家とか音楽家とか、学者とか、そういう有名な魔法使いの話も聞くけど、長生きで、人間みたいにあくせく暮らしてないから、楽しいことがたくさんできるんだろう。
 お酒で口が軽くなったせいもあり、そんなことをあたしが白状すると、シャイロックは微笑んで頷いた。その通りですよ、ただ、私は魔法使いのなかでも変わり者なんです、だって。
 あの日の彼のその言葉が本当か嘘か、あたしにはわからない。本当は魔法使い達も、あたしたち人間のことがけっこう好きなのかもしれない。あたしたちと一緒に生きていきたいのかもしれない。だってあたしには孫ができて、どうやらその子は魔法使いらしいのだ。魔法使いはいつだって、人から生まれるんだってこと、知識で知っているのと実感するのは大違いだった。魔法使いでもあの子はあたしの孫で、あたしもあたしの息子夫婦もあの子がとっても大切なのだ。
 神酒の街のベネットの店にあたしが行ったのは、あの日が最初で最後だった。話し込んでいるうちにやって来た常連客はみんな魔法使いだったし、神酒の街はやっぱり、庶民のあたしたちには縁遠い場所だ。物価も高いしね。若い頃のきれいな思い出にしておくのがちょうどいい。
 でも、ずっと憶えている。
 ひいばあちゃんが恋した美しいシャイロックおにいさま、ばらばらになったベネットの一族と、かつて暮らしていた土地をいまでも愛している、きれいで、孤独な、変わり者の魔法使い。きっとあたしが店を訪れた日のことも、彼は山ほどの思い出のひとつに加えて、大切にしてくれているだろう。だからあたしも、あのひとの記憶を大事にすると決めた。
 あたしの孫が大きくなったら、神酒の街のベネットの酒場を訪ねるよう言ってやるつもりだ。きっと彼はあの日と少しも変わらずあの場所に立って、微笑んで、迎えてくれるだろう。でも、もうしばらくは秘密よ。孫がちゃんと恋を知って、伴侶を見つけるまではね。でなきゃまた、シャイロックおにいさまに叶わぬ初恋をするベネット家の末裔が増えてしまう。あたしだって新婚じゃなきゃ危なかったもの。新婚旅行で訪れた酒場の美人店主にうっかりよろめきそうになったなんてのは、あたしら夫婦が少しずつ紐解いてきた秘密の中でも、最後まで残すとっておきだ。まあ、隣で居眠りしてるあたしの旦那も、同じこと考えてそうだけどね。