旅路の果て
魔法使いの子どもが生まれたら、この言葉を伝えなさい。
我が家には古い口伝がひとつだけある、のだそうだ。いつから伝わったものなのか、僕にそれを伝えてくれた母も、よくは知らないようだった。親族に尋ねまわればもう少し詳しい情報があるのかもしれないが、僕にそんなことをできる権利はなかった。
あたしだってねぇ、と、母は歪めた唇の端から、ひしゃげた声音で言った。興味なんてなかったんだけどさぁ。
でもあんたできちゃったから。
ぷいとそっぽを向いて、母は煙を吐き出した。それから爪先を真っ赤に染めた手を、犬の子を追い払うように乱暴に振った。
僕はささやかな荷物を入れたずだ袋を胸に抱いて、深々と頭を下げた。さようなら。それと、ありがとう。絞り出した言葉はもう、母の耳には届いていないようだった。
おかあさん。
そう呼ぶことは憚られた。僕の母であったことは、母にとって人生最大の汚点なのだ。乳飲み子を抱えて婚家を追い出され、出戻った実家でも邪険にされて、それでも僕をこの年まで死なせず養ってくれた母には感謝こそすれ、恨む気持ちなどひとつもない。
僕は回れ右をすると、歩き出した。背後で扉がばたんと閉まる音がした。母の顔を見たのはそれが最後だ。
『神酒の街のシャイロック』
母に教えられた言葉を僕は口の中で繰り返し唱えた。文字というものの読み方や書き方を教わったことはないので、なにかを覚えるときにはいつもそうする。
それから、道行く人をつかまえて、その言葉について聞いてみた。神酒の街――正しくは神酒の歓楽街だそうだが、東の方角にある街の名前らしい。歩いて行くとどのくらいですかと問うと怪訝な顔をされるばかりで、結局よくは分からなかったものの、僕はともかく東に向かって歩くことに決めた。魔法使いに生まれたくせに、魔法使いの知り合いが一人もいない僕にとって、母から教えられたその言葉がたった一つのよすがだった。
それからのことを長々と書く気はない。出立の日から二十年ばかり経ったある日、僕は神酒の街に辿り着いた。
僕は感慨深く、街並を見渡した。よく整備された、美しい街だった。美しかったけれど、それだけだ。二十年の間に僕が心のなかで作り上げてしまった、夢のような街はどこにもない。雑踏に立って、少し耳を澄ますだけで、この街でも魔法使いは嫌われ者だということがわかった。幼い僕の思い描いた、魔法使いのための楽園など、きっとこの地上のどこにも存在しやしない。
達成感など微塵もなく、ただ深い失望が僕の胸を満たした。
どうしてこんな旅に二十年も費やしてしまったのだろう。
ずっと目を逸らし続けていた重い疲労がずしりと全身にのしかかり、僕は道端に蹲った。道行く人が迷惑そうにちらちらとこちらを見るのがわかる。それでも動けなかった。いっそこのまま路傍の石になり果ててしまいたい。
「――どしたのよ、あんた」
それが僕にかけられた声だと理解するまでに、かなりの時間がかかった。ねえ、あんたよ、と苛立った声を重ねられて、ようやく僕は顔を上げた。
僕を見下ろしていたのはひとりの魔女だった。
「あんた魔法使いでしょ」
ひそめた声で彼女は問い、僕はおずおずと頷いた。
「ここらじゃ見ない顔だけど、どっから来たの」
「旅の……旅の途中なんです。ああ、いや、途中じゃないのか……」
「は?」
「神酒の街に行けって、言われて。……でも、来たかったのは、ここじゃなかった……」
「なんかよくわかんないけど。合ってるわよ、神酒の歓楽街って言ったらここよ。誰かを訪ねて来たわけ? 誰?」
「ええっと、あの、」
ぽんぽんと尋ねられて、僕はまごつきながら、ずっと昔に母が教えてくれたフレーズを口にしていた。それは僕のお守りであり、僕の縋った夢の残骸だ。
「『神酒の街のシャイロック』を」
「シャイロック? あんたシャイロックの知り合い? シャイロックの店ならそろそろ開くわよ。連れてったげてもいいけど……ああでも、そんな汚れた服じゃダメね。あのひとわりとそういうとこ煩いのよ。着替え持ってない?」
矢継ぎ早に言われ、服屋に連れて行かれ――財布の中身を見せたら彼女はしかめっ面をして、古着屋へと進路を変えてくれた――どうにか見栄えのする装いを整えた頃には日がとっぷり暮れていた。
「あの」
「ん?」
「なんで見も知らぬ僕にこんな親切に……」
「だってなんか面白い人生辿ってそうじゃない。そういうの好きなのよ、あのひとが。アタシも今日はいい席に着けそう」
魔女はけらけらと笑ってから、無造作な手つきで飴色のドアを押した。店内の賑やかな話し声がわっと押し寄せる。足を踏み入れたそこが、ベネットの酒場だった。
「シャイロック!」
店内の賑やかさに負けない音量に張り上げた声で、彼女は店主のものだろう名を呼んだ。カウンターの奥で客と談笑していたバーテンダーが、優雅なしぐさでこちらに顔を向ける。
「おや、ローラ。いらっしゃい」
「こんばんは、シャイロック。今日も美人ね! ねえ、さっき面白い子を拾ったの。あなたを訪ねてきたんですって。ずいぶん長旅してきたみたいよ」
僕に話しかけたときより少し気取った声音で彼女はそう言って、僕の背中をずいと前に押し出した。シャイロックと呼ばれた青年は、おや、と面白がるように眉をあげて、僕を見た。すらりと細身だけれど、向かい合うと背が高い。それなのに威圧感がなくて、やわらかな雰囲気の人だった。
少しだけ、記憶の中の母に似ている気がした。
どうしてそう思ったのか、まるでわからないけれど。
「……あの」
「はい」
「僕、魔法使いなんです」
「そのようにお見受けしますね。ご心配なく、この店は魔法使い専門の酒場です。どうぞおくつろぎくださいな」
「それであの。僕、えと、僕の家に言い伝えがあって、魔法使いが生まれたら、神酒の街のシャイロックのところへ行けって。それで、来たんです」
「――――」
しどろもどろに語った僕を、シャイロックはじっと見つめた。
それから、花がほころぶように微笑んで、僕の手を取った。
「そう」
僕の手は爪のあいだが黒ずんでいて、お世辞にもきれいじゃない。比べるのが恥ずかしくなるくらいにすんなりとして、爪の先までつやつやに磨かれたシャイロックの手が、僕の手の甲を優しくぽんぽんと叩いて、そっと引いた。導かれるまま店の椅子に腰を下ろした僕の前に、背の高いグラスが置かれる。シャイロックの指先が宙に踊って、空中をふわふわ飛んできた瓶や小皿やポットの中身が、グラスの中を満たしていく。
「あなたの長い旅路の終わりを祝して――」
「終わりなんですか」
彼の言葉を遮って、僕は尋ねた。
だってここは楽園じゃないのだ。ただの街だった。この店だって不思議な場所だけど、ただの酒場だ。
「終わりなんですか、これ。僕はどうしたらいいんですか。言い伝えって、なんですか。母さんは、――母さんはどうして僕を、僕のこと、」
僕をここに連れてきた魔女が、顔をしかめて僕を見ていた。周囲の客も、遠巻きに僕を見ながらざわついている。申し訳ないことをしたと思う。でも僕には構っていられなかった。だってこれからどこへ行けばいいんだろう。
僕の周りにいる人で、シャイロックだけが変わらず微笑んでいた。どこからかパイプを取り出して、吸い口に唇をつけ、細く息を吐き出す。
煙がひとすじ、ゆらゆらと流れていった。
ひどく懐かしい匂いだった。
「……そうですね。あなたが終わりにしたいなら、終わりを。そうでないなら、始まりを、あるいは小休止を。どんな口実にも酩酊は等しく甘くて苦いものです。――さあ、どうぞお飲みになって」
かたかた震える僕の手にグラスを持たせて、どうぞ、とシャイロックは促す。
僕はグラスを見下ろした。そこには虹があった。船があって、道があり、鳥が飛び、薪が燃えていた。木の葉が揺れて、星がきらめき、猫が路地裏を駆けていた。
まばたきをするたびにグラスの中には別の光景が広がる。見たこともない不思議なのに、どうしてか、慕わしさが胸を満たした。
僕は意を決してグラスを持ち上げ、おそるおそる口を付けた。一口目は甘く、次の一口は塩辛かった。濃厚で、酸味があり、あたたかで、こくがあり、淡泊で、冷たく、芳醇で、すっとする。光景だけでなく味も次々と変わり、二度と同じ味はしない。
最後の一口はほろ苦く、ほのかに煙の香りがした。
そして、僕は僕の旅を飲み干した。
僕はその晩、たくさんの話をした。生まれた街の話。僕を生んだ母の話。家を出された日のこと。抱えた袋の軽さ。旅の途中で出会った人々との物語。
僕の向かいの席には、たくさんの人が座った。魔女のローラも来たし、白いひげの老爺や、気取った物腰の男、子どものような姿の魔女だったり、寡黙な青年もいた。もちろんシャイロックも何度もやって来て、そのたび僕に新しい飲み物を出してくれた。
長い長い話をしながら、僕は少しずつ理解した。魔法使いが幸せに暮らす楽園はどこにもなく、誰も彼もが孤独で、寄る辺なく、けれど、日々を楽しむことも知っている。
いつか僕も知るのだろう。それは今日ではないのかも知れないけれど。
どこからともなく音楽が聞こえて、数人が歌い始め、また別の数人が踊り始めた。ローラが僕の手をとり、僕は生まれて初めてダンスというものをした。慣れないステップに四苦八苦しているうちに、僕は笑っていた。笑いながら泣いて、泣きながら笑った。その場のみんなが同じように泣いたり笑ったりしていて、酒場は大騒ぎだった。カウンターの内側でグラスを磨きながら、シャイロックは呆れたように笑っていた。
夜が明けるころ、店じまいの時間だとシャイロックが告げて、客達はぞろぞろと引き上げ始めた。僕は冷や水を浴びたように飛び上がって、財布の中を覗いた。服代だけで三分の一は消えてしまったのに、今夜の支払いをどうしたらいいだろう。
またしどろもどろになる僕をなだめてくれたのもシャイロックだった。今日のお代は僕の身の上話なのだという。僕の話などとても対価になるとは思えなかったけれど、これは彼の優しさだったのだろうと、ありがたく甘えることにした。
最後にひとつだけ、と前置きして、彼は僕に問うた。
「ベネットの名に聞き覚えは?」
僕は首を横に振った。知らない言葉だった。そう、とシャイロックは頷いて、あなたの旅路に幸ありますように、と微笑んだ。どうしてだかその笑みは、どこか寂しそうに見えた。
朝焼けの中、行くあてもなく浜辺を歩く。絶え間なく繰り返される潮騒の音は、どうしてか、昔の記憶を呼び起こした。
僕はふと顔を上げた。
ベネット。
それはたぶん、僕の母が大事に持っていた指輪に書かれていた文字だ。当時の僕は文字が読めなくて、ただの模様だとしか思っていなかったけれど。
足を止め、振り返る。
朝を迎えた街はどこか気だるい表情をしていた。
僕はもう一度首を振った。そしてまた、歩き出す。
僕の旅路の本当の終わりに、きっと僕はまた、ここに辿り着くのだろう。